歴史ある都市には、さまざまな興味ある物件に遭遇することがある。例えば、どこにでもあるピアノではあるけれど、そんじょそこらにはないピアノもあるのだ。そんなピアノが吾輩の知るところでは尾道に3台もある。
1台は1899年(明治32年)製シュタインウエイ&サン社のもの(写真/上)で、1台は1906年(明治39年)製のベヒシュタイン社のもの(写真/中)、そして最後は1950年(昭和25年)製のディアパ−ソン社(日本)のもの(写真/下)だ。
100歳を超えたシュタインウエイ・ピアノ
尾道市立久保小学校といえば、1873年(明治6年)に『小学温柔舎』として天寧寺の中に創設された、尾道ではもっとも古い由緒ある学校である。現在の校舎も昭和8年製鉄筋コンクリ−ト3階建ての貴重なものだ。
この学校には、もうひとつ知られざる宝物<ピアノの名器>がある。
Steinway & Sons NewYorkの1899年製だ。
この世に生まれ、98年という長ーい歳月が過ぎ去った1997年当時は、象牙作りの52鍵の白鍵は部分的に剥げ落ち、外観の痛みもひどく、火災を潜り貫けても、今もなお生き続ける生命力には圧倒されたものだ。話によれば、このピアノは尾道ゆかりの軍人が軍艦に載せて尾道に運んで来たという。
尾道の繁栄ぶりを物語るこの名器、ぜひとも修復し、ふたたび華麗な響きを奏でることを期待したいものだと吾輩は密かに考えていた。
吾輩の思いが通じたのか、久保小学校のPTAが中心となって、このピアノを修復しようという動きが芽生えた。この修復を300万円で手掛けたのが、大阪堺在住の山本宣夫さん(山本コレクション代表、フォルテピアノ修復家)だ。彼はオーストリア国立ウィーン芸術史博物館の専属フォルテピアノ修復師であり、吾輩の住む尾道の大ファンでもある。
一年の歳月が流れた1998年10月、シュタインウエイ・ピアノは美しい音色ときりっとした容姿で再び久保小学校に帰ってきた。
山本氏はこのスタインウエィピアノ修復に関して、その想いを文章を残している。
1906年生まれのベヒシュタイン・ピアノ
広島県立尾道東高等学校のルーツを辿ると、1909年(明治42年)創立の尾道市立高等女学校に至る。小説家・林芙美子が学んだ学校としても有名で、校長室には彼女が描いた油絵「裸婦」が飾ってある。
1931年(昭和6年)広島県立尾道高等女学校(県女)は創立20年を迎え、全国から当時のお金で6,000円が寄付金が集められた。その寄付金4,000円で当時としては最新設備を誇る講堂が建てられ、残りの2,000円で世界でも最高級品のベヒシュタイン社のフルコンサート・ピアノ(1906年製)が備えられた。(2,000円は民家が2軒も建つ貨幣価値があった。)
購入時のベヒシュタイン日本代理店の帳簿には、同型のピアノは、日本に3台輸入されたと記録されている。1台は宮内庁、1台は内閣総理大臣官邸、そして最後の1台は広島県立尾道高等女学校である。当然のことながら、このピアノは県女の誇りであった。
戦後もしばらくは,東高校の名物であった。ある時は広島まで運ばれ,当時は珍しかった外国のピアニストの演奏に使われたという。写真は昭和28年10月5日広島市東洋座において行われた、ソロモン氏の演奏会でのピアノで演奏している様子である。
しかし,年と共にこのピアノも忘れられていった。
その後,音楽準備室に設置されていたが,象牙の鍵盤は磨り減り黄ばんでいた。何回か移動したためであろう、脚は傷ついていた。よみがえらせるためには多額の経費を必要とした。
こうした優れた楽器は,単に音を出す道具と考えたくない気品がある。1990年(平成2年)創立80周年記念事業として同窓会が寄付金600万円を募り、完全修復したという。(広島県立尾道東高等学校「80年のあゆみ」を参照)
しかしながら、専門家の鑑定で分かったことだが、修復部品にヤマハ製が使われており、残念ながら骨董的価値はくなったという。
蘇った日本生まれのドイツのピアノ
向島洋らんセンタ−の展示棟は、当初はどこにでもあるガラス張りの温室として計画されていた。この計画を知った尾道出身の建築家・岡河 貢(広島大学助教授)氏は、予算の枠内でも文化ホ−ルとしても使用できる多目的空間を建設できることを提案。1994年、彼の設計によって向島の文化施設が誕生した。
洋らんセンタ−では、地域の文化活動を支援する意味から、ピアノを常設したいと考えたが、購入予算は70万円しかなかった。そこで、大の尾道ファンである山本宣夫氏(フォルテピアノ修復家)に相談したところ、実に興味ある回答が得られたのだ。
山本氏の工房には、大阪市の東梅田教会で永く使用されていたピアノが保管されていた。ピアノは運搬中に脚が折れ、持ち主の意向で廃棄処分にされる運命にあったが、山本氏がその材質の良さから、倉庫に保管していたというのだ。
このピアノは、1950年代に製作されたディアパ−ソン(日本製)で、山本氏は、提示された限られた予算で、コンサ−トにたえられるピアノとして蘇らせようと快諾したのだ。
山本氏はディアパ−ソンの中身(ハンマ−、フェルト、弦)を全く新しいドイツのレンナ−社の部品に取り替え、二度目の新しい生命を吹き込んだのだ。
1997年12月26日、このピアノが堺市より運ばれてきた。新たに蘇ったこのピアノは、典型的なドイツピアノの美しい音色を奏でる。
思えば、向島洋ランセンターは実に幸運な運命を歩んでいる。当センターの代表で林原 透氏が自らの夢を描き、「思う念力岩をも通す」で、ひとりで広島県農林水産課の扉を叩き予算化させた。その結果、向島町は重い腰を上げざるを得なくなり、洋ランセンター建設計画が動き始めたのだ。
そんな折り、尾道出身者の建築家・岡河 貢氏と同じく尾道出身者のランドスケープデザイナー・戸田良樹氏がボランティアでこの計画に参画したのだ。彼等の手により素晴らしい野外空間と多目的な展示棟が完成し、当センターは今や押しも押されぬ文化活動の拠点として、数多くのコンサ−トやイベントが開かれている。









