それにしても、この浄土寺の寺紋が足利家の二引きの紋であるという不思議さだ。明治維新以降のある時期に、朝廷の逆臣として歴史の表舞台から抹殺されたはずの足利家の家紋が堂々と浄土寺の寺紋として受け入れられていたとは...。
京都や奈良の国家権力により建立された寺院とは異なり、尾道の豪商たちによって支えられてきた七堂伽藍は、その規模は幾分小振りながら、実に美しい。
この伽藍には、見逃すことのできぬ庭園がある。玉座のある方丈の間から望む築山泉水庭は観るものの心を静寂の美の虜にさせるのだ。
文化三年(1806年)正月中旬の築庭といわれる庭園は、徳島の隠士で雪舟十三代の孫、長谷川川柳の手になるもで、作庭当時の絵図が今も伝えられている。
そしてこの庭には、文化十一年(1814年)に対岸向島の商人富島家(屋号・天満屋)から浄土寺に寄進・移築された露滴庵(ろてきあん)がある。
この茶席は伏見城内にあったもので、当時は「燕庵(えんあん)」と呼ばれ、 古田織部好みで、京都・本願寺を経て、向島へ移築されたものである伝えられている。
この茶席の形式は古く、風格ある建物で桃山時代の創建と考えられ、本席と間2室は浄土寺への移築時に建て増しされたという。
このたびは、住職の許可を得て、吾輩が庭と「露滴庵」を撮影し、その魅力をお伝えすることにした。










