いつの頃から自転車がただのモノになってしまったのだろう。世の中、モノが溢れているから、豊かなのかと思えば、明らかに貧困だ。それも極度の精神的貧困さだ。日本中にその貧困さがまん延しているように思えるのは、吾輩だけだろうか。
「愛用」という言葉はもう死語になったのだろうか。「これは爺さまがずーと使っていた腕時計」で「吾輩が幼き頃、憧れの眼差しで眺めていた」時計。それは、まぎれもなく世の中に一つしか無い時計。手垢にまみれ、使い古された腕時計には、二世代、三世代の愛情が注がれてきた。なんて、ナンセンス?!と聞こえてきそうな昨今である。
原因は何か? と猫の額の奥に納まる小さな脳みそで考えてみた。だって、そうなんだよね。ちょっと壊れたからって、修理するより新品やリサイクル自転車を買う方が安いんだもの。
昨今、新しいものが「美しい」って短絡的思考の持ち主が確かに増えている。だけど、世の中そうばかりでないでしょう。古いものにも大いに「美」や「愛情」が存在するのだニャン。
かつて大量消費時代とかいって、どんどん使ってはポイの消費文化や大量生産のインスタントものがもてはやされたよねぇ。高度経済成長を支えてきた内需の拡大っていう奴さ。お陰でモノが溢れて、便利になって、精神文化だけが痩せ細っていった。
そしてグローバリゼーションという錦の御旗。官軍ならずアメリカ的ドライな資本主義が、ただひたすら利潤という絶対神に帰依するために世界中を席巻する。ここでシナリオが狂ってきた。共産主義を打ちのめし、世界中の人々を幸せにする筈の資本が、人間の手を離れて暴走し始めたのだ...。
吾輩、随分ストレスが溜まっているのか。自転車の話が訳の判らぬ経済原理までワープしてしまった、トホホ....。
自転車はこどもたちの憧れの対象だった。兄弟や両親、ちょっと雄ませな友だちに後ろで支えてもらい、危なっかしく振らつき走る。やがて自転車が身体と同化し、とうとう自立したときの喜び!! いつか僕もあの自転車に乗って、お兄ちゃんたちと走るんだ!幼子の熱い眼差しが自転車には注がれていたと思うのだけれど...。
上の写真は日差しと風がほどよく感じられる山手の細〜い坂道のフェンスに駐輪された自転車。ピカピカに輝いて幸せそうだね。そして下の写真は国道沿いの、とある日陰の窪みに打ち捨てられた自転車たち。同じヒトが造り出した自転車の天国と地獄。
ともかくも、人類の英知がいつか地球温暖化をストップさせ、非営利的活動が中核となるポスト資本主義社会を誕生させ、世界中の人々がみな幸せになることがいつか来ると信じるとしよう。猫だからしみじみ思うのだけれど、心の豊かさも大切ですゾ。








