橋本邸のコンクリート塀を倒したかと思っていたら、今度は道路が掘り返され、ついには話に聞いていた、良き時代の石垣が姿を現わしたのだ。
防地口交差点を海の方に曲がり、宮野耳鼻咽喉科前から海岸通りの「かき船」まで続く道路(写真/上)、この下に川が流れていることを知っている尾道市民は少なくなった。
昔の地名には、それぞれの地理的特徴を意味するものが多い。ビサン ゼセッション(久保3丁目8-33)のある地域は「川端」といい、防地川が暗渠となる昭和8、9年以前には、このあたりは流れ行く川の水、吹く風に揺れる柳に人力車といった風情ある空間であったという。
今から17、18年前までは、この知名に由来した「川端寮」という日立造船お抱えの料亭もあり、芸者衆が奏でる三味線の音色が尾道の夜を華やかに染めていた良き時代を連想させた。
この川下にあたる、現在の教育会館入口あたりには新橋というりっぱな石橋(海龍寺の裏に移築)が架かっていたようだ。
昭和2、3年当時の尾道の人口は3万人、そのうち、何と芸者は100人余りに娼妓は230人(昭和6年頃には260人余り)を数えたという。港町として栄えた尾道を物語る歴史の一コマだ。
大正四年に中國實業遊覧案内社吉田松太郎氏により出版された「尾道案内」の復刻版が手許にあるが、その中に当時の美しき芸者衆の写真があったのでご紹介しよう。写真には「尾道新地藝妓 偕楽舎券番」と書かれている。
この防地川の西側、巨大迷路のように無数の路地が走る新地、新開には、検番と50〜60軒の置屋(おきや)があり、歌舞音曲による遊びが繰り広げられ、何とも華やかな艶のあるまちだったと想像されるのだ。
七十数年昔の過去から、突然、現れた防地川の石垣が、失われた尾道的風情を一瞬、蘇らせてくれたのだ。
「猫が行き交うまち」は人にも安全な住み良いまちと云われている。そして「尾道町」は猫に優しいまちと云われてきた。
ところが最近、半世紀昔の価値基準で作られた都市計画がそのまま実行に移されようとしているのだ。車偏重のまちづくりが盛んであった時代の都市計画だ。猫の額ほどの「尾道町」で道路拡張がどんどん進められ、どんどん路地も消滅していく。
路地と違って、広い道路は猫にとっては危険極まりない。落ち落ち渡ることもできないのだ。吾輩は猫である。猫にとって優しいまちづくりは、人にとっても快適なまちづくりだと考える。そこで、大胆な猫的発想のまちづくりをご披露しよう。
「この際、暗渠を止め、あの石垣を生かして柳並木を復活させ、尾道的風情を復活させるという提案はニャンともいいではないか。
それとも産業遺構の石垣が見えるように、道路の一部をガラス張りにするというところまで譲歩しようかな(笑)....。」









