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はてさて、どれが真実なのか、どれが本当なのか?!

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路地学総論/RojigakuSoron


路地学総論/RojigakuSoron

尾道という地名の由来


吾輩の住む「尾道」は、少なくとも九百年を越える歴史がある。それだけに尾道という地名の由来にもさまざまな説がある。
地名というのは元来、その土地の地理的特徴を表記したものが大半であり、久保(=窪)、川端、長江、尾崎など「尾道町」の住所の旧表示を思い起こせば納得がいく。そんなことから、尾道という地名の由来は、一般的には「山の尾の道」から生まれたというのが定説となっている。
現在の本通り以南は埋立地であり、昔この地は、尾道三山といわれる東から瑠璃山(浄土寺山)、愛宕山(西國寺山)、大宝山(千光寺山)の三山が海に迫り、狭い帯状の土地に山の尾根伝いに一筋の道があったことから、「尾道」と呼ばれるようになったというのだ。
またこんな説もある。「尾」は「川口」のことで、防地川、長江川の川口を結ぶ一筋の道があったからだという説である。
ほかに「伊尾の道」が起源だという説もある。平安末期に尾道が現在の世羅郡甲山町を中心としてできた「大田庄(おおたのしょう)」の倉敷地として1166年公認されたが、大田庄の中に伊尾(現在の三川ダム付近)という地名があることから、「伊尾の米の道」の港として作られたこの地を「尾道」と呼ぶようになったのだという説である。
さらに、尾道の郷土史家で故・財間八郎著「尾道散策」によると、作家・司馬遼太郎の説を紹介している。それは港を生命とする尾道だから、「澪(みお)の道」即ち、船の航路から出たものではないかと説である。澪とは三省堂の辞書によると「(1)内湾や河口付近で、砂泥質・遠浅の海底に沖合まで刻まれた浅い谷。水の流れの筋。小舟の航路となる水路。(2)船の通ったあとに残る泡や水の筋。航跡。」という意味があるようで、「みおの道」から「おの道」「尾道」となったという説である。
はてさて、どれが真実なのか、どれが本当なのか、吾輩にはチンプンカンプン分らぬが、定説の「山の尾の道」が一番シンプルでいいと思うが、どうであろうか。路地学総論/RojigakuSoron


路地のある尾道町(おのみちまち)


尾道町とは、瑠璃山(通称:浄土寺山)、愛宕山(通称:西國寺山)、大宝山(通称:千光寺山)の尾道三山と向島という大自然によって仕切られた理想的な空間だ。そして、その合間を曲線を描きながら、潮の干満によりあるときは東へ、あるときは西へと流れを変える海(尾道水道)が織り成す、世界でも稀な美しい都市景観だ。
不思議なことに、尾道町は古代ローマ人が理想の都市空間と考えた半径1.5Kmのサイズにぴったりはまる。このサイズは俗にいうヒューマン・スケールというもので、過去に生きた多くの人々と現在に呼吸するわれわれがこの土地を介して繋がっているという特異な空間なのだ。一般的にはこの地域は旧市街とばれているが、吾輩は人間尺度でつくられた感性豊かな「尾道町」と呼んでいる。
吾輩が興味をもつ尾道町とは、明治31年(1898年)の大合併で、広島県内2番目の市制施行となった尾道市以前の御調郡(みつぎぐん)尾道町、さらに云えば1889年に町制施行となった尾崎、久保、十四日、土堂、東御所、西御所だが、特別におまけとして三軒家もその対象としているのだ。
路地学総論/RojigakuSoron

路地.小路.町の関係論


尾道では、路地が出世すると○○小路(しょうじ)となる。京都では小路を「こうじ」と呼ぶようだが、尾道ではなぜか「しょうじ」という。そして文政4年(1821年)の古地図によれば、尾道町の背骨にあたる西国街道では、石工職人が集中する地区を石屋町と呼び、八幡神社の参道入口あたりの地区を大宮崎町や宮崎町というように呼んでいたようだ。
この町を「まち」というか「ちょう」と読むかは、時代によって違いがあるやも知れぬし、正直よくわからない。しかし、平成の現在でも古老の間では、尾道の地名に、鍛冶屋が数軒あった地域(エリア)を鍛冶屋町(まち)、米屋が数軒あったというので米場町(こめばちょう)、歓楽街の真ん中の東西の通りが中の町(ちょう)という具合にまだまだ地名は生きている。さらに小路が拡幅され、町に昇格したものもある。一つの例が文政年間のミヨノ小路で、いつの日か水ノ尾小路となり、今では水尾町(ちょう)と呼ばれている。何だか蝶(ちょう)のメタモルフォーゼに似てるなぁ。
路地と小路は、いずれも全く同一のものを示すが、世間で必要性が生じると、「路」にある目印となる建物や樹木の名をとり、単なる路地が突然○○小路と名前を付けられ、誰にでもその位置がGPS(Global Positioning System)のごとく瞬時に認識できるようにしたという、世間の知恵だろう。どこにでもある路地が、社会的価値が高まり元服して名を授かったということか。云ってみれば出世魚のように変化したものだ。吾輩が野良猫ではなく、単なる家猫であったとき、ある日突然どういうわけか尊敬に値す爵位を授かり、「路地ニャン公」になったのと少しは似てるか?!
世間的必要性に迫られると、路地は△△小路と名付けられ、誰にでも認められる存在となる。それに比較し、名もない路地はいつまでも世間に認知されぬただの路地のままだ。
ところが、である。そんな名もない単なる路地が、ある日突然、著名な「タイル小路」という名の路地となったのは、余りにも有名な話だ。それにしても、尾道では京都のように小路(こうじ)とは読まないのは何故か?!ものの本によると、京都は中国の隋、唐の都・長安城をモデルにして、風水に基づく四神相応の都市計画により作られた。そしてこの都は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていた。尾道も四神相応の都市計画により作られたという説があるが、それが浮上したのは平成の世になってからのことだ。昔の尾道人は、大路とか小路(こうじ)という京の都と同じ呼び名で道を意識していたとは思えない。そこで吾輩、路地ニャン公は考えた.....。
フムフム「そうだ!!」とすぐさま閃いた。尾道は猫の額ほどの狭さだから大路(おおじ)をつくる広さがない!! 大路といえば、明治時代の山陽鉄道の敷設と敗戦後に国道2号線の拡幅により町家や幸神社は強制撤去となり、その結果、海側と山側が分断され、尾道町は現在「本通り」と呼んでいる1.5km余りの西国街道が、背骨のように伸びていたくらいだ。
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文政4年(1821年)の古地図をみると、山側にある寺々に通じる参道が「大門」、町中に点在する祠(ほこら)に通じる南北を縫う小さな路地が「小路」と書かれている。この「小路」を現代の尾道人は違和感なく「しょうじ」と読む。何百年と続いた町だから、昔の呼び名が継承されてきたことは凄く自然なことだと思うが、間違っているだろうか。勝手気ままな推論をどんどん展開すると、妙に頭脳が活性化して気持ちよい。ウジウジ悩むことなど止めて、吾輩のようにのんびり楽しく生きるのも、路地学総論の教えではあるまいか

路地は文化遺産


ろじには、路地と露地がある。いずれも昔ながらの風情を伝えるニュアンスのある名称だ。通常使われるのは単純な「路地」であり、「露地」には何か奥深い意味があるようだ。と、云うわけで気になる「露地」を調べてみたら、次のようなことが分かったのだ。「露地」とは、世俗を離れ、清浄無垢の境地に至ることを理想とする茶の湯、その理想を表現する場所である茶室へ至るまでの通路をそう呼ぶらしい。この露地は単に通り道という機能だけに留まらず、悟りの境地に至るための精神的高揚を演出する場所であり、一期一会の主・客の交わりへの導入部というわけだ。“そうか、分かった!だから「ろじ」を抜けた途端、大通りで知り合いによく出くわすのか”と思うのは路地ニャン公の浅知恵か。
さて、もう一つの「路地」だが、国語辞典によると、その意味は家と家との間の狭い通路、といういとも簡単な表現でしか説明されていない。兎も角(ともかく)も、「路地」空間は生活感が豊かで、吾輩のような由緒正しき猫にも住みやすい。猫が住みやすいということは、人間さまにも住みやすいに決まっている。赤瀬川原平さんが、かつて毎日グラフに書かれた「猫が行き交うまち」の尾道町では、今も江戸時代の路地空間が存在し、そういう意味で人が住みやすい町なのだ。
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ここ十数年、吾輩は「路地」は文化遺産だと声を大にしてニャーニャー鳴き叫んでいたが、「路地」の亡骸(なきがら)が多く見られるようになり、「路地」がドンドン目の前から消えて行く。昔は「渡場小路」「薬師堂小路」と呼ばれたものが、道路拡幅工事でいつの時代か「渡場通り」「薬師堂通り」になっいる。古い家屋が倒されると「路地」がなくなる。その隣には、ポッカリと心に埋められぬ空しい大きなブラックホールができたようだ。あとは天敵の車が勝ち誇ったかのように居座る駐車場ばかりが増殖し、尾道町を蝕んで行くのだろう。

尾道の路地と現代都市


1998年7月18日、尾道で都市環境デザインセミナ−なるものが開かれた。テ−マは「路地から観たまちづくりの作法」という。関西ブロックと中国ブロックの都市デザイン会議の共催というこのセミナ−には、建築畑のプロ集団が60名参加するというので、吾輩は素人ながら、胸をワクワクさせこの日を待った。当日は、山手班と新開班という2グル−プに分かれ、吾輩は毎日徘徊しておる新開を担当し、みんなを巨大迷路のような路地へと案内した。
この時期は、当然、真夏の太陽は威勢よく、みんな少々歩きくたびれ、ダウン寸前。それでもみんなよくついてきた。セミナ−では吾輩もパネラ−の一人として登壇。その発言内容の一部をここで披露する。

「路地の面白さの一つは

ある場所に行きたいと思ったとき、そのときの気分に応じて、いろんな経路の道を自由気ままに選べることだ。これは実に面白い。車社会に合わせて計画された道路と違って、自然発生的に出来た「路地」は、人間臭くて、思いもよらぬ新しい発見が出来て、実に楽しいものだ。
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尾道は人口が少ないわりに、昔から文化人など多くの人材を輩出してきた町だ。何故そうなのか、吾輩にはよく分からぬが、まっ、敢えて吾輩の推論をご披露するならば、やはりそれも尾道の町の在りようと深く関わっているのではないかと考える。
まずは、尾道水道だ。埋め立てを繰り返したため海が狭められ、川のように蛇行しながら東から西へ、西から東へと潮が流れる。この海が人間の煩悩をすべてを浄化してくれる。それから坂道だ。これは同じものを見ていても、居る場所によって全く違うものに見えてしまうという視覚的効果がありますゾ。路地は昔の生活臭を感じながら過去の世界を彷徨(さまよ)える、そうした効果は、人間の心や頭に心地よい刺激を与えてくれるような気がするのだが...。
路地にも、漁師さんが住むところもあれば浮き世の歓楽街もあり、それぞれ違う個性を持っている。しかも、路地は都会でも田舎でもない曖昧なところが良い。光が射しているところもあれば陰もあり、広い道路から突然姿を暗ませることができるのも路地の面白さだ。
路地にある家は、狭い空間に軒を出したり引っ込めたり、それなりに収まっている。そうした中で育まれたコミュニティ−の良さもいいところ。プライバシ−が漏れてしまうまずさはあるが、それだからこそお互いが信頼しあって生活しているという良さもある。今晩のおかずのやりとりができる生活環境だから、誰もがリラックスできるんだ。だから路地の中では、吾輩のような猫族は実にのんびりしているのだ。…(後略)」

町家の隙間に路地


JR山陽本線尾道駅から東へ200mくらい移動すると、林芙美子の銅像がある。ここから東へ、十数年前まで約1.5kmも続く商店街があった。しかしながら、時代の変遷、道路が縮んだワケではないが、商店がなくなって今では1kmになってしまった。その商店街を地元では本通り(メイン・ストリート)という。かつては、この道がまちの中心であったということだ。
その本通りには、けっこう江戸時代の建物があると聞いていたが、商店街のアーケードの下を歩いていると、そんな年代物の建物があるなんてとても想像できないだろう。こればっかりは、本通りの住民でしか知り得ない情報だと思っていたが、今から十年くらい前、アーケードの上を歩く機会を得た。抜き足差し足で歩いてみると、あるわ在るわ、草の生えた見るからに年代物の屋根瓦が目に飛び込んできたのだ。それ以来、改めて尾道の商店街は歴史ある商店街なんだと再認識した次第。
そんな商店街で、久々にこの地域に住む知り合いに出会った。久々に逢ったので、話の花が咲き、いつの間にか「路地」の話になってしまった。そして彼は、吾輩にご近所の路地を二本も案内してくれたのだ。尾道町の隅から隅まで知り尽していると思っていた吾輩であったが、実は、この路地は吾輩の脳細胞の記憶にはまったく認識されていない、初めての路地だったのだ。
それはそれは大きな衝撃であった。こんな路地がここにあったとは...。何度も通り過ぎてきた、この商店街のここに路地があったなんて...。その幅、100cmくらいのもの、あと一つの路地は、蟹の横ばいでないと通れそうもない。のぞいてみると先が見えるので、抜けられるらしい。早速、彼の後について抜けてみた。初体験の通り抜けとは、何とも言えずゾクゾク感があり小気味がいいものだ。それにしても、何でこんな狭い路地が存在したのか。吾輩の脳細胞が、勝手にまた働き始めた....。
トップの写真は、江戸中期の安永三年(1774年)に尾道を描いた浄土寺所蔵の「安永屏風」の一部分だ。
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