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約45年もの間、吾輩と共に刻んだ記憶は脳裏から未だ消えず...。

記憶の中の人や店や建造物/Inmemory> 思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432


思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

自動車にも人格がある?!


日本中、どこの都市の郊外でも見られる中古車販売センター。「高値で買い取ります」「廉価販売します」と威勢よく幟を立てて一目を引いているお店。高価な外車ばかりを取り揃えているお店。どれをみても吾輩には新車のようにピカピカ輝いて見える。そして各々の車のフロントガラスには、代金◯◯万円と車価格を表示してある。その中にあって、一台だけドキッとする表示が目に付いた。「事故歴なし」。「私は一度も過ったことはしていません。」と主張しているのだろうか。50年も生きてきた吾輩には、恥ずかしながら事故歴が結構あるのだが、この車は大したものだ。
そう言えば、最近の車は生産ラインに載って、コンピューター管理で寸分違わず均質のクローン車がぞくぞく生まれている。ほんの数十年前の昔には、職人さんがひとつひとつの部品をつくり、組み立て、手塩にかけて一台づつ車を誕生させていたのだ。そんな時代の車には、確かに車それぞれの個性があると理解している。
吾輩の飼い主が愛用する車にも、そういえば個性があるのだ。この車、生まれた年は1969年(1970年1月登録)で、600台の生産台数の中で49番目にこの世に生を受け、以来ずーと尾道で暮らしてきた。それを証拠に殆ど見かけぬ古い福山5のナンバープレートと戸籍ならぬ車検証が物語っている。思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

馴れ初めの話


思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

吾輩は猫であるのに、飼い主が滔々(とうとう)と“FairladyZ432との馴れ初め”を語りだすのは、いつものことで以下の通りだ。
『1969年、大学生だった吾輩に開業医のH先生がフェアレディZ432のカタログを見せてくださった。そのスタイルの斬新さに、当時の吾輩は胸をときめかしたことを今でも鮮明に覚えている。吾輩「いいですね。この車!」、H先生「トヨタ2000GTを売ってくれなくてねぇ、この車を注文したんだ!」
1970年1月9日、その車が尾道の開業医H氏のところへやってきた。とにかく当時の国産車としては、性能も価格も桁違いの凄い車だった。化け物のようなエンジンをもつZ432の助手席に乗せてもらいドライブを楽しんだ。やがてこの車を借りて長距離ドライブも楽しむようになり、Fairlady Z432の虜になった。
それから4年くらいたった1974(昭和49)年頃、吾輩は社会人となっていて、たまたまフェアレディ240ZGの中古車を手に入れることができた。車体を全塗装し、標準装備されていたツインのソレックスのキャブレターを外しウエーバーキャブレター45口径の三連を取り付けて乗り回した。しかし、Z432の存在は片時も頭から離れなかった。
240ZGを手放し、開業医のH先生の息子さんからZ432を譲り受けたのが、確か1980年頃だったろうか。そんなことで、吾輩はシャシー番号PS30-00049、エンジン番号S20-000876という、この車の二番目のオーナーとなったが、この車に関して吾輩以上に知るものはいないだろう。
愛車の新車当時の色はシルバーメタリックだった。そして今は黄色に変っている。なぜオリジナルの色を変えたのか、それには訳があった。一つは、どういった理由か判らないがガソリン注入口の周りの色が斑(まだら)状態に変色したこと。二つ目は432のエンブレムが再三盗難にあい、傷つけられたこと、最悪だったのは、京都二条の鴨川沿いにあった瀟酒なFホテルに宿泊して、すべての「Fairlady Z」と「432」のエンブレムがドライバーのようなもので傷つけられ、盗難にあったことだ。ショックだったねぇ。今考えると、当時は想像以上にこの432は注目の的だったということだろう。
そんなことが重なり、今から27、28年前だったか、エンジンを降ろし、オール塗装に踏み切った。部分塗装では、シルバーメタリックは色を合わせにくかったし、オール塗装をするのだから、いっそのこと違った色を塗ってしまえ、ということで、室内以外のシルバーメタリックの塗装を薬ですべて剥がし、新たに幸せ色の黄色にすることを決めたのだ。しかし、当時のfairladyの純正カラーはレモンイエローで好きではなかった。いろいろ悩んだ末、ポルシェカラーの黄色にした。』思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

愛すべき車“FairladyZ432”


思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432
吾輩のご主人の話はまだまだ続く。
『この車、名前はフェアレディZ432と名付けられている。何故432なのかといえば、二通りの説があるという。ひとつは、当時の日産がトヨタの2000GTに対抗して最高の技術陣を結集し研究開発に携わった村田工場の研究室が432号室であったという説、もうひとつは4(フォー)バルブ、3(スリー)キャブレター、2(ツイン)カムというエンジンの特長を表したものだという説だ。美人には噂がつきものだ。
そして暑い夏には、エンジンも熱く、車内も暑い。パワーウインドウ、パワーハンドル、クーラーという便利なものは、この車には初めから装着することを念頭においていない。
いわゆる素っピンの美しさとでもいうものか。そのかわりトランスミッションはポルシェタイプ、ラジエターはアルミ製で、車で使われているボルトやナットは真鍮で、当時としては珍しい無接点式ディストリビューターが採用されていた。』

美人は朝の目覚めが悪い?


『箱入り娘のせいか、四季の変化に敏感で、外気の変化に微妙に影響を受けて、三連のソレックス・キャブレターは、ときどき調子を崩してしまう。車が調子を崩せば、当然吾輩も一心同体で機嫌が悪くなる。一日中気分が優れないのだ。
美人は朝の目覚めが悪いとは、数十年の間、彼女と付き合ってきた吾輩の感想だ。彼女を目覚めさせる(エンジン始動する)には、イグニッションを作動させる前に、軽くアクセルペダルを数度踏み込む。そしてペダルから静かに足を離し、ひたすら彼女が反応するまで、イグニッションを作動させ、目覚めを待つのだ。エンジンがかかったら、エンジン回転数を2,000回転くらいに維持し、水温があがるまでじっと耐え忍ぶ。その間、5分から10分、季節によって対応をかえる必要があるのだ。
美しい寝顔をしたベッドの中の彼女を目覚めさせるには、誰でもというわけに行かない。下手をすれば、ご機嫌を損ね、点火プラグがかぶって(=プラグを濡らして)エンジンがかからなくなってしまう。それほど、彼女は鋭敏なのだ。勿論、彼女には事故歴はない。』
1970年の1月に一目惚れして以来、ず〜と彼女に寄り添っている吾輩の主人がいうのだから間違いはない。それにしても、かれこれ40年が過ぎている。よくも飽きないものだと思うのは吾輩だけか...。(2010年3月11日)思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

切れた電球


『最近のことだが、スピードメーターの電球が切れたので替えて貰おうと、たまたま近くの日産レッドステージの店を初めて訪ねた。そこで幸運にもすこぶる腕のいいエンジニアの工場長・高田佳典さんに出逢えたのだ。全く偶然という他ない。
以来、名医の診断と適切な整備で、じゃじゃ馬のエンジンは嘘のように安定した回転を維持し、さまざまなことが解決され、着々と愛車が若返って行った。エンジン音の中に微かに聞こえるシュンシュンシュンというあの往年のサウンドが40年ぶりに甦った。もちろん回転数を上げたときの轟音は実に小気味良く、切れがよい。
新車購入時は、オプションであったカンパニョーロ社のマグネシューム合金ホイールは、いまだに健在だ。当時は今の自動車用鋼板と違い腐食しやすかったので、ステップなどの腐食防止のため、潜水艦などに使われる腐食防止塗料で保全処理をした。当然ながら、ナンバープレートは「福山5 ××××」と1970年当時そのままだ。(その昔は車の登録は広島だけだったが、この当時から、広島県は広島と福山の二種類のナンバープレートとなっていた。)』思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

危機一髪


思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432
『2011年3月、突然、1,200rpmあたりでガラガラという異音がエンジンのフロント部より出始めた。タイミングチェーンのアイドラーテンショナーなる部品交換が必要だとの診断だった。
それから2ケ月を経過した5月、燃料計と油圧計が一体になった純正部品の在庫が運良く日産にあったので交換。新車から40年以上経過し、様々な部品の老朽化も進み、新車当時の状態に甦らせてやりたいとの思いが強くなり始めた。
ついに吾輩は覚悟を決め、2011年6月12日(日)愛車をドックインさせた。驚いたことにエンジン内部は予想だにしなかった危機的状況にあった。間一髪でエンジンを再生不能にさせるところだったのだ。』思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

甦ったじゃじゃ馬!


『日産サティオ福山(株)尾道高須店の工場長・高田佳典さん(現在は独立、整備工場「T's labo」を福山市柳井町4-6-10で経営)と出会ったことで、愛車の運命は大きく変わった。この尾道高須店は、ディーラーでありながらハコスカやハコスカGT-Rの再生工場のようだ。彼の腕を頼って様々な状態のハコスカが集まってくる。
Z432と同じメカニズムのエンジンを持つハコスカGT-Rを数多く手がけていることへの技術的信頼と高田さんの車へ注ぐ愛情が並のものではないという実感が、私の愛車再生を決断させた。
2011年6月にドックインし、トラブルを乗り越えながら、半年がかりでついに2012年1月10日再び甦ったのだ。新車登録をした1970年1月9日から数えて42年と1日振りの完全復活である。
甦った愛車は、エンジン音が今までとは幾分静かになり、忘れかけていた新車当時のパワーが復活していた。アクセルを踏み込めば、なめらかに回転がイエローゾーン(7,000rpm)の手前まで一気に噴き上がる。いままで排ガス規制で生産中止となった有鉛ハイオクガソリンの替わりに無鉛ハイオクガソリンに添加剤を加えていたが、このたびのオーバーホールで添加剤は不要となり煩わしさがなくなった。
そして、もっとも大きく変わったのがタイミング・チェーン・システムからR Factoryのカム・ギア・トレーン・システムとなったことだ。そのため2,000rpmから3,000rpmの間でギア特有の唸り音がするものの、高速走行では全く気にかからない。このシステム変更により、オイルポンプもギアトレーンオイルポンプとなり、油圧計の針が通常の1.5倍反応することとなった。また高速回転のギアに合うようエンジンオイルは、粘度が高くと耐熱性に優れたWAKO'Sの25W-50を使用することとなった。そのため、冬期には暖気運転に少々手間取る。
結局、このたびのエンジンのOH(オーバーホール)に使われた交換部品は約120種類535個で、ほかにオーバーホール済みの3連ソレックスキャブレターを購入し交換、そしてミッションのオーバーホールなど、正に平成の大修理となってしまった。
そんなわけで、新車当時と同様となったエンジンは走行距離123,837kmが再スタートとなった。馴らし運転は124,800kmまで4,000rpm、125,800kmまでは5,000rpm以下に押さえるという我慢の走行を終え、晴れて制約の枠を外れ、今日まで高速走行を500kmほど楽しむことができ、大いに満足している。
2012年6月19日現在の総走行距離は126,314km(約2,500km)。馴らし運転のためとはいえ、半年で通常の一年分を越える走行をしたとは、吾ながら良く頑張ったものでる。42年昔の青春の記憶は再び実感できたことだし、そろそろ新たな人生の道を選択をすべく、敢えて愛車を手放そうと考えている。』
思い出のフェアレディZ 432/FairladyZ432

続きは乞うご期待!
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