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【かわぐちかいじ】+【かわぐちきょうじ】=共有するマンガ世界

川口協治/KawaguchiKyoji


川口協治/KawaguchiKyoji

兄と弟、二人が共有した漫画の世界


初めて会ったとき(1985年)はどちらが兄で、どちらが弟かわからなかった。兄は漫画家・かわぐちかいじ(川口開治)、弟は川口石油の社長だった川口協治だ。一卵性双生児の彼らの電話のやりとりは、「あれはどうだった?」「う〜ん。あれはなかなかいいんじゃないか。」と、まるっきり、周りのものには理解できない「あれそれ」という会話だ。どうやら、かわぐちかいじさんの連載ものの批評をしているらしい。幼い頃から二人には共有する世界があった。そして成長するにつれ二人とも漫画の虜になっていた。マンガの無い世界は二人には考えられなかった。と同時に生を受けて兄弟が分かれて生活することもなく、大学を卒業するまで兄弟同居の生活を送っていた。川口協治/KawaguchiKyoji

そんな中の良い兄弟の大学時代はどうであったか。兄は明治大学漫画研究会に属しどっぷり漫画に漬かっていた。弟は、東洋大学に行きイラストや漫画も書くが、音楽好きで読書好き、そして社交的だった。ところが彼らに転機が訪れた。どちらか一人が家業を継ぐ決断を迫られたのだ。二人は真剣に話し合い、一つの結論を出した。兄は東京に残り漫画家となり、弟は尾道に帰り、家業を継ぐことにした。

仕事の合間を縫って漫画を描き続けた弟・かわぐちきょうじ


川口協治/KawaguchiKyoji
川口協治は家業に精を出しながら、合間に漫画を描く。締め切り近くなると、前日の宴席はほどほどにして陽も昇らぬ早朝に起きて描き終えてから出社する。彼のテ−マは起承転結の四コマ漫画だ。10日に一度の経済誌への連載「団塊くん」は300回で終え、新たに「家族戦記2010」を63回連載中だ。ほかに建築士会会報では「ひろしまLADY」、広島の仏教誌に「UNCLEせんぞう」、法人会会報の「イロハのイの異」と彼の生んだキャラクタ−は多忙をきわめる。異色では吾輩の飼い主が企画し誕生させた尾道の路地裏を徘徊する猫をモデルに、「吾輩は猫である」の末裔と自称する尾道よろず案内役「路地ニャン公」や「尾道七佛めぐり」のイラストや干支色紙などなど枚挙にいとまがない。
社会人になってからは、彼は尾道にどっしりと根を張り、いわゆるオールラウンドプレーヤーとして人望も厚かった。そんな彼が苦闘しながら、5年もの歳月を経てライフワ−クとしていた漫画本を一昨年の2006年秋に完成させた。尾道の名誉市民で、風景画家の小林和作の人物像を描いた「花を見るかな」だ。尾道ゆかりの作家・高橋玄洋著「評伝 小林和作」を原作とし、脚本・高橋玄洋、監修・かわぐちかいじ、画・かわぐちきょうじ(1948-2013)という豪華な顔ぶれである。川口協治/KawaguchiKyoji

【あとがき】に書かれた兄かわぐちかいじの「釘と炭」


「小林和作伝 花を見るかな」のあとがきに、かわぐちかいじが記した「釘と炭」を紹介する。
『子供の頃、私達二人のキャンバスは家の庭だった。
漫画が好きで、中でも大好きなアトムや赤胴鈴之助や鉄人28号を、二人で釘を手に地面いっぱいに夢中になって描いた。
その庭がコンクリートで舗装されると、今度は納屋の中から炭俵を見つけ出し、炭で描くようになった。雨が降ると流れた炭で庭が真っ黒になり親は困ったろうが、来る日も来る日も庭で漫画を描いて遊んでいる私達二人にどこか安心していたのか、叱りはしなかった。
なぜ、ああも私達二人は漫画を描くことに夢中になったのだろうか。
自分の引く単純な線の下からヒーロー達は呼吸を始め、まるで自分が魔法使いのように、ヒーロー達に生命を与え、彼らの世界の空気を作り出す。私達が手にした釘と炭は、そのヒーロー達の世界へ入り込む魔法の杖だったのだと、今は思う。
本作「花を見るかな」では、小林和作画伯を中心に多くの画家・芸術家が登場する。その誰もが生き生きとして面白いのは、かわぐちきょうじがその芸術家達を自分と等しく魔法に魅せられた同志だと感じ、その人達に限りない興味と愛情を持って描いたからだと、思う。』 かわぐちかいじ

2012年春に突然病魔に襲われ、一年間の闘病生活を続けていた彼だが、2013年4月30日午前5時頃、「カットアウト」で65年の人生を括った。誠に残念である。多くの足跡とともに彼の存在感が吾輩の心中に刻まれ、今にずっしり残っている。川口協治/KawaguchiKyoji

補足

*1)トップの写真は、かわぐちかいじが「太陽の黙示録」で第51回小学館漫画賞を受賞(2006年)した、その祝賀会が尾道で開かれたときのツーショットだ。(右が川口協治)
*2)2枚の額の写真は、川口協治が好きなビールを飲みながら、コースターに描き続けた似顔絵を額に収めたもので、今は閉店した味の店「輝」の壁中に飾られていたものの一部だ。描かれた似顔絵を数えたことはないが、300〜400枚はあったと思われる。その中には、かわぐちかいじが帰郷したときに描いた似顔、尾道を訪れた赤瀬川原平自筆の自画像や谷川俊太郎がコースターに描かれた自身の似顔に「私に間違いない」と裏書したものもあった。
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