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アイアン・パルテノン構想

尾道の歴史を生かした「アイアン・パルテノン構想」とは...。
アイアン・パルテノン構想
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 バブル経済の1988年から89年にかけて、竹下登首相の政権下で「ふるさと創生一億円」という全国の自治体に地方交付税という形で一億円がバラまかれた。これをどのように使うか、尾道市は市民的議論を喚起させないまま、後の野外彫刻設置事業を進めようとした。私たち「尾道じゅうにん委員会」は、一億円の使い道の議論の場として、1989年3月広島県や尾道市内のさまざまな団体に呼び掛け、尾道まちづくりシンポジウム「一億円をどう活用するか」の開催に漕ぎ着けた。そして、その一億円を使う具体的事業の提案として、我々は密かに「アイアン・パルテノン(出会いの装置)構想」の企画を練っていた。
同年10月、その構想を公表するため、「第2回グルメ・海の印象派ーおのみち」(略.グルメ・イベント)の中に、単独で広島県地域振興部から予算を獲得して、赤瀬川原平(現代芸術家・作家)、高橋玄洋(作家)、大林宣彦(映画監督)、石川文洋(写真家)ほか多くのパネリストを招聘した新たなシンポジウム「味なしんぽ−食べながら夢を語る人々」を企画し、尾道じゅうにん委員会が事務局を務める「出会いの装置製造本舗」で実施した。その予算は以降、広島県から尾道市を経由し、グルメ・イベントの数年間を支えてくれた。

 「アイアン・パルテノン(Iron Parthenon)構想」の対象となっていたのは、現在のグリーンヒルホテル尾道の西に隣接する県営倉庫群の一つである上屋1号棟(今は二階建ての鉄骨の駐車場となっている)であった。



 倉庫群の中でも、特に県営倉庫1号棟は、尾道が海運の隆盛を誇っていた時代の産業遺構として、極めて重要な存在であった。その内部は、手作りのリベットで止められた鉄のトラスに組んであるという、芸術的な美しさがあったのだ。(写真左/中)
 出会いの装置IRON Parthenonの企画書のプロローグには次のようなことが書かれている。


 尾道は、瀬戸内海の中心に位置し、平安の昔から海に門戸を開き、かつては 海上と内陸(南北)沿岸(東西)の物流と文化・経済の中心として栄えてきた。
そして現在、物流の主軸が、海の路から陸の道に移り、海と陸との接点であった港尾道は、その機能と価値を改めて問い直されはじめている。私たちは、そうした尾道が再び人流の港として、文化情報機能を備えたコミュニケーション・シティに変貌していく可能性を確信している。
 私たちは、西御所海岸に位置する鉄骨倉庫をコミュニケーション・センター機能を果たしうる新たな神殿・IRON Parthenon(アイアン パルテノン)としてメタモルフォーゼ(変容)させることを提案する。


不幸なことに、このアイデアは尾道市や尾道の経済界に当時、全く理解されることはなかった。それでも、諦めることなく、私たちはそれが実現されることを夢見ていた。JTBの協力を得て、中国地方の観光名所をイラストにしたギブアウエイの一筆箋を製作することで得た資金を投入し、12ページにわたる企画書を作成し、経済界や尾道市の主任以上の役職の人々に無料配付し、努力を続けた。
 1998年、尾道市長の私的諮問機関であった「尾道観光市民会議」の会長であった私に、亀田良一市長から電話があった。「県営倉庫1号棟は鉄が腐っているから壊して、駐車場にしようと思うが、どうか?」という内容であった。私はそれに反対した。鉄の腐食は今の技術では克服できる。どうしても駐車場したいのであれば、トラスに組まれた鉄枠だけ残して駐車場にしてほしい」と提案した。
 あくまでも鉄のフレームを残す事で、いつかは歴史資産として理解され、活用される日が来るはずであった。しかしながら、当時の亀田市長にはその価値が理解できなかったのだ。「アイアン・パルテノン構想」を発表した9年後、大切な大きな尾道の資産が無惨にも壊されてしまった。
     

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