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小林和作

こばやしわさく画伯の人間的スケールはあまりにも大きい...。
小林和作
小林和作

尾道ファン倶楽部・名誉会員

<小林和作(1888〜1974)のプロフィール>
 小林和作は明治21年に山口県吉敷郡秋穂町で生れた。父は家業である大船問屋を和作に継がせようとしたが、和作は画家になることを強く希望した。幼いころから病弱で極度の吃音症に悩んでいた和作だが、頭脳明せきで、10代で三国志の原書を愛読していたという。
 17歳の時に、京都市立美術工芸学校日本画科に入学し、竹内栖鳳らに学ぶ。同校卒業後、川北霞峰の画塾へ通いながら、できたばかりの京都市立絵画専門学校に入学、卒業した。
 絵画専門学校では、和作の一級上で、最初の卒業生の中には、村上華岳、土田麦僊、小野竹喬、入江波光氏らがいた。
 和作はその頃の官展であった文展に日本画で二度入選し(二度目には入賞) したものの、その後は落選ばかりで、日本画がいやになっていた。そんな折り父が死去し、巨額の遺産を相続した。
 大正11年秋にそれまでの日本画家生活を止め、一家で東京へ移り、洋画家生活を始めた。
 洋画家を志した和作は、自分の師を梅原龍三郎、中川一政、林武と決め、彼等のところへ出入した。
 昭和3年1月から4年の初夏まで渡欧。その間イタリアへ半年、フランスの南方のセザンヌの生地であるエクス・アン・プロバンスへ半年滞在、以後の画業に大きな影響を与える。
 その後帰国したが、財産を管理していた弟が株式で失敗して全財産を失った。石原求龍堂の世話で、富豪時代に買い集めた岸田劉生、梅原龍三郎、中川一政、林武らの70点の作品が競売にかけられた。おそらく日本最初のオークションであった。失意の内に昭和9年(1934)尾道へ移り住み、永住することになる。また同年春陽会員を辞退して、独立美術協会の会員となる。

1952年中国文化賞受賞。1953年芸術選奨文部大臣賞受賞。1964年山口県秋穂町名誉町民となる。1971年勲三等旭日中綬章受賞。
1978年尾道市名誉市民となる。命日の11月4日には毎年、西國寺で和作忌と懇談会「和作を偲ぶ会」が開かれている。

<書籍>
小林和作全文集「春の旅 秋の旅」(求龍堂)

*なかた美術館(尾道市潮見町6-11)には、画伯の作品を展示した「小林和作室」があります。
*小林和作像をより詳しくお知りになりたい方は、高橋玄洋作「評伝小林和作 花を見るかな」をお読みください。

*漫画家かわぐちかいじの実弟・かわぐちきょうじ作『小林和作伝 花を見るかな』の漫画本で小林和作の人間的スケールの大きさを知ることができます。

 「尾道へ来てから四十年になるが、その後の私は財産は激減したので、今迄通りに遊んでばかりいては生きて行けないので、そこで、始めて目を覚して本式に絵の勉強をすることにした。風景画家である私としては、勉強法の第一歩は、美しい風景を入念に写生しつづけて、自然の構成や色彩を徹底的に知ることにあると悟ったので、その後はその方法でとにかく真剣に勉強した。
 その辺で天助を得たものか、私は画家としての地位をやや確立し、年齢も今は八十六だが、割合に健康で大体絵も毎日かいている。
 尾道へ移り住んで以後の私は、だんだんに一種の悟りを開いて、絵の上では東京辺の先輩や友人たちの影響を離れて独立することと、絵の第一歩は構図だと思って、美しい構図を捜し廻ることに努力した。そのために、私はその後三、四十年の間に、日本全国の海や山の名所は大抵歩いて、紙に鉛筆で入念に写生し、それに水彩で着色する私流の写生画を作って廻った。それが異常に熱心であったので、私の手許には、その方法での写生画が一千枚以上も残っている。これが他の先生方の影響からだんだんに離れて行って、所謂、地方での土着画家、或は民衆画家としての地位を確立しつつある。
 これでよいのかどうか知らぬが、他に仕方がないから当分はこのままで行くつもりである。」



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