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尾道の景観運動

この静かな町の中心市街地に、1990年5月、思いも寄らぬ...。
尾道の景観運動
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尾道の景観運動

にわかに湧いた景観論争
 日本中がみな同じ顔につくられた都市開発という高度経済成長の波にのることもなく、尾道は昔と変わらぬ風情あるたたずまいをみせていた。
 この静かな町の中心市街地に、1990年5月、思いも寄らぬ高層分譲マンションの建設が広島市の(株)共立ハウジングによって計画されていることが判明した。市民は動揺した。高度経済成長の波に乗り遅れたというコンプレックスで、開発という言葉が豊かさを意味すると理解していた人々は喜び、尾道の魅力はその景観にあり、今のままであってほしいと願う人々は、がく然とした。
 その当時、行政や市議会でさえ「景観」という認識が全くなく、「空から見れば、美しいではないか」とさえ公言する議員や「香港のようになったらいい」と非現実的とも思える意見を公然と言い放つものもいた。観光都市あるいは歴史都市ともいわれた尾道には、建築指導要綱さえ存在しなかったのだ。

署名運動から建設用地の買収運動へ
 尾道水道と三山に囲まれた中心市街地に高層マンションを建設することに反対する人々が、5月23日、日暮兵士郎氏(1919-2005)を会長とする「尾道の歴史的景観を守る会」を結成し、署名運動をはじめた。翌6月5日9,538名の署名が集められ、広島県と尾道市に陳情、広島県議会議長と尾道市議会議長に請願した。しかしながら、法律的規制もないこの尾道では、建設を中止させるほどの意味を持つものではなかった。
 建設会社の企業損失をできるだけ少なくし、円満に解決する方法として、建設用地の買収運動が浮上した。(株)共立ハウジングの理解を得て、期限付きの買い取り契約を結ぶことができのだ。3億5千万円という途方もない募金活動を何がなんでも実現させなければならない。「尾道の歴史的景観を守る会」理事会は、負け戦を覚悟の上、9月1日敢えてその闘いを決意した。
 募金は集めやすいように、無利子での借入金という形式をとり進められた。募金活動は順調に推移するようにみえた。

挫折を越えて
 運動開始の当初、1億円集めれば行政は動くだろうと淡い期待があった。それは尾道ゆかりの作家高橋玄洋氏から伺っていた1991年埼玉県所沢市で始まったナショナルトラスト運動「トトロの森」の経過とその成功事例が支えとなっていたからだ。
 1ヶ月で1億円あまりが集まり、尾道市に建設用地買い取りを要請したが、当時の博田東平市長から思いもよらぬ回答が寄せられた。「尾道の歴史的景観を守る会の運動は限られた一地区の運動であって、市民運動とは言い難い。まして用地買収を行えば切りがない」と。
 建設会社との期限は間近にせまっていた。募金活動は1億5千5百万円で足踏みしていた。
 今度こそはダメかと覚悟していた矢先、二人の篤志家が名乗り出た。尾道にゆかりがある神戸の法人と尾道を愛する竹原の個人が、所有する土地を売って「尾道の歴史的景観を守る会」に1億9千万円を貸そうというのだ。信じがたいことが起きるものである。合わせて3億5千万円という土地買収資金が集まった。同年10月5日浄土寺で開かれた「尾道の歴史的景観を守る会」の理事会は、用地買収を決議した。理事はその喜びと感動に沸き立った。
   その喜びの最中、会長の日暮兵士郎氏は、3億5千万円の借入金を今後どのように寄付に転換させるか、想定されるその困難な道程に敢えて踏込むことを一人密かに決意していた。

ふたたび挫折へ
 翌1991年よりさまざまな募金活動と景観に対する尾道市民への啓蒙運動がはじまった。チャリティ−・コンサ−ト、バザ−、尾道まちづくり市民会議が重ねられた。景観問題も「守るのではなく、成長管理(Growing Control)という新しい景観創造の考え方」にシフトさせていった。そして3月24日、銀座数寄屋橋での街頭募金を皮切りに全国に募金活動を呼びかけた。



 尾道市との交渉は不調に終わったが、「守る会」は諦めなかった。再度の募金活動を行いながら、行政が動きやすいように地方都市のまちづくりを研究する機関「財団法人まち総合研究所」という第3セクタ−のシンクタンクづくりを提言し、財団の基本財産のうち、2,000万円の出資を尾道市に要請した。しかしながら、この提案も「屋上屋を重ねるもの」だと全く問題にされなかた。
 翌1992年2月、新たに200Mほど離れた別の場所に、景観運動に挑戦するかのように岡山県の建設業者が高層分譲マンションの建築申請を提出、未だ指導要綱も景観条例もない尾道市で建設が始まった。「尾道の歴史的景観を守る会」の熱心な活動にもかかわらず、景観運動は、全市的な運動に昇華することもなく、ついに景観を損ねる高層マンションが建設されてしまった。

順風が吹き始めた
 3億5千万円の買収資金が集まった「尾道の歴史的景観を守る会」ではあったが、その大半は借入金であった。土地は買えたとしても、その借入金をどのように返済するかが大きな問題である。尾道市に再度土地購入を要請し、あわせて尾道市への指定寄付の申し出をしたが、やはり答えは「ノ−」であった。
 そんな折り、日暮会長に東京在住の吉井氏が「美術館」建設構想を提案した。この景観運動の理解者の一人で、東京銀座・パリ・ニュ−ヨ−クに画廊を経営する尾道出身者の吉井長三氏だ。
 吉井氏は、白樺派の同人たちが夢見て果たせなかった「白樺美術館」を山梨県の清春芸術村に開館した人物である。広島県と尾道市、尾道市民が協力して美術館を建設してくれれば、尾道市に多額の美術品を寄付するというのである。
 この提案をすぐさま尾道市に伝えたが、またしても期待する回答は得られなかった。「美術館は町に一つ有れば良い」と考える行政や市議会が当時は大勢をしめていたのだ。

景観運動から尾道白樺美術館の建設へ
 「尾道の歴史的景観を守る会」が取り組んだ尾道の景観運動は、さまざまな経過をたどり、美術館建設構想へ、そして「尾道白樺美術館」建設へと動きはじめた。
 集められた募金のうち、借入金2億1,500万円を会長の日暮氏が経営する丸善製薬(株)が肩代わりし、「尾道の歴史的景観を守る会」は、(株)共立ハウジングより土地を購入した。
 この運動に共鳴し、支援した人々は貸付金を寄付金へ切り替え、丸善製薬株式会社は1億円をこえる大口寄付を行い、3億5千万円の借入金は無事返済を終えた。そして美術館の建設資金と展示作品については、吉井氏の全面的な協力を得ることができたのである。

尾道白樺美術館の誕生
 吉井氏は、尾道に建てる美術館も梅原龍三郎・志賀直哉らが夢見ていた「小さくてもいい、キラリと光る美術館」をとの意志を受け継ぎ、白樺派ゆかりの建物を移築したいと考えていた。
 尾道白樺美術館は、すでに取り壊されていた梅原龍三郎の居宅を、その設計図をもとに再現することとなった。清春芸術村には、吉井氏の「清春白樺美術館」建設の良き支援者でもあった梅原龍三郎のアトリエが移築されている。清春白樺美術館と尾道白樺美術館は、名実ともに姉妹館となったのである。
 館内は、梅原龍三郎記念室となる第一展示室、武者小路実篤、志賀直哉、中川一政をはじめ白樺派作家の絵画・彫刻・書・原稿など120点が常設される第二、第三展示室からなり、年4回の企画展が計画される。館長に画家・岸田夏子氏(岸田劉生の孫)を迎え、尾道白樺美術館は1999年4月29日開館した。

生かされなかった教訓
 全国的にも珍しい歴史都市の景観を守ろうという運動は、「尾道白樺美術館」に結実したが、尾道の景観行政を進展させるに至らなかった。
 尾道市長は博田東平氏から新たに亀田良一氏に代わったが、亀田氏は商工会議所副会頭当時に『尾道は香港のようになれば良い』と景観問題には全く理解を示さず、景観運動を批判していた。
   1998年、全国的には成功事例がないといわれる駅前再開発を尾道市が断行。尾道駅舎の西側には高層マンション、駅前海岸にはホテルが建設され、尾道の重要な産業遺構であった県営上屋1号棟が壊され駐車場となった。この県営上屋は手作りのリベットで止められた鉄のトラスに組んであるという尾道の将来にとって極めて重要な資産であった。
 そして2005年、尾道駅舎の東側に民間企業の高層マンション建設計画が表面化した。一般市民、経済団体は景観条例が尾道にないことを改めて知ることとなる。
 多くの団体がいち早く建設反対の意見書を発表した。そして景観行政の立ち後れによる代償として、尾道市は建設予定地を5億4千万円で買い取ることを余儀無くされたのだ。
 すなわち、この2年前、尾道市は「世界遺産に登録する」ことを目指すと宣言していたのだった。皮肉にも景観問題に理解を示さなかった亀田市長が、当時全国的に注目を集めていた「世界遺産登録」ブームに関心を寄せ、その結果として尾道の景観行政の重要性を痛感することとなる。
 2005年8月、ようやく尾道市は景観法に基づく「景観行政団体」の同意を広島県から得た。県内では、広島県、広島市、福山市、三次市に次いで5番目である。


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