明治、大正のデンキ坂とは
れんが坂は煉瓦坂ではない。しかし何故ひらかなで表記するのかと疑問を持たれる方もおられるかも知れない。この坂が蓮華(れんげ)坂と云われていたとも聞くが、これも定かではない。
そこで、吾輩、路地ニャン公の優れた臭覚と聴覚、知覚をもって、れんが坂の由緒正しき名前を求めて緻密な情報収集にこれ務めたのだ。その結果、れんが坂の住民の戸籍に<デンギ坂>と書かれていたとの貴重な情報を入手した。ところが、住民の記憶の中のその漢字は、今ではどこを探してみても見当たらない。デンとは木偏(へん)に電という旁(つくり)の、言い換えれば<木+電>一文字の漢字で、ギとは<木>と書かれていたという。そんな漢字があるのかな、と改めて漢和辞典を探しまくっては見たが、やはり発見できないのだ。それでは、この記憶、いやこの情報は信ぴょう性がないのか?!そこが路地ニャン公、ふと記憶の回路がよみがえってきた。
そこで、吾輩、路地ニャン公の優れた臭覚と聴覚、知覚をもって、れんが坂の由緒正しき名前を求めて緻密な情報収集にこれ務めたのだ。その結果、れんが坂の住民の戸籍に<デンギ坂>と書かれていたとの貴重な情報を入手した。ところが、住民の記憶の中のその漢字は、今ではどこを探してみても見当たらない。デンとは木偏(へん)に電という旁(つくり)の、言い換えれば<木+電>一文字の漢字で、ギとは<木>と書かれていたという。そんな漢字があるのかな、と改めて漢和辞典を探しまくっては見たが、やはり発見できないのだ。それでは、この記憶、いやこの情報は信ぴょう性がないのか?!そこが路地ニャン公、ふと記憶の回路がよみがえってきた。
2冊の書物に記されたデンギ坂
ひょっとして、あの本に書かれていないか!! あの本とは大正4年4月1日に発刊された「尾道案内」(中國實業遊覽案内社編輯局 吉田松太郎)のことだ。
早速、頁をめくってみた。実に面白い本である。その内容たるや驚くほど豊かで興味深いが、そのことは別頁でご案内することにして...。話を戻して、ペラペラめくっていたら、アっ、あった。数ある目次の中の「娯楽」の、そのまた中の「庭園」で、「尾道形勝中の多くは、何れも茶園の占領するところ....」と書かれている。ここでいう茶園とは、茶畑を意味するのではなく、裕福な人々の茶室のある別荘のことだ。
当時の尾道町には18もの茶園があったと紹介されている。その茶園のうち、西原善平氏別荘と児玉喜兵衛氏別荘の二つが<久保町デン木坂>と書かれているのだ。さらに目次の「神社仏閣」の中では、尾道神葬地(現在の愛宕祖霊殿)が紹介され、その住所を「久保町字デン木坂にあり」(デンは木の偏に電の旁)の漢字一文字で表記され、デンギとフリガナあり)と記している。れんが坂は大正4年当時はデンギ坂といわれていたことが明確になったのだ。
あと一つ、財間八郎著「尾道散策」(昭和52年5月25日発刊)も面白い。尾道散策と尾道物語の2部構成となっており、尾道物語では尾道のあけぼの、古代、中世、近世が垣間見れる。
また尾道散策の「久保の里」の中に、「丹花の城山墓地(おそらく福善寺の墓地)から『蓮華坂=デン木坂』(*デンは偏が木+旁の雷の漢字で表記)を少し下ると....」と書かれている。電と雷は光と音で兄弟のようなものだろう。ここでは、昭和になると蓮華坂と呼んでいたこともわかる。
早速、頁をめくってみた。実に面白い本である。その内容たるや驚くほど豊かで興味深いが、そのことは別頁でご案内することにして...。話を戻して、ペラペラめくっていたら、アっ、あった。数ある目次の中の「娯楽」の、そのまた中の「庭園」で、「尾道形勝中の多くは、何れも茶園の占領するところ....」と書かれている。ここでいう茶園とは、茶畑を意味するのではなく、裕福な人々の茶室のある別荘のことだ。
当時の尾道町には18もの茶園があったと紹介されている。その茶園のうち、西原善平氏別荘と児玉喜兵衛氏別荘の二つが<久保町デン木坂>と書かれているのだ。さらに目次の「神社仏閣」の中では、尾道神葬地(現在の愛宕祖霊殿)が紹介され、その住所を「久保町字デン木坂にあり」(デンは木の偏に電の旁)の漢字一文字で表記され、デンギとフリガナあり)と記している。れんが坂は大正4年当時はデンギ坂といわれていたことが明確になったのだ。
あと一つ、財間八郎著「尾道散策」(昭和52年5月25日発刊)も面白い。尾道散策と尾道物語の2部構成となっており、尾道物語では尾道のあけぼの、古代、中世、近世が垣間見れる。
また尾道散策の「久保の里」の中に、「丹花の城山墓地(おそらく福善寺の墓地)から『蓮華坂=デン木坂』(*デンは偏が木+旁の雷の漢字で表記)を少し下ると....」と書かれている。電と雷は光と音で兄弟のようなものだろう。ここでは、昭和になると蓮華坂と呼んでいたこともわかる。
かつて二つの茶園があった蓮華坂には
今も閑静な住宅地として、風情ある佇まいの家屋が続くこの坂道は、尾道町の散策をしようと訪れた見知らぬ人々には魅力的だろう。
西國寺大門からこの蓮華坂を中間点あたりまで上って行くと、右手に神道の愛宕祖霊殿がある。入口左手には、神宗斎廟・愛宕祖霊殿の石柱、その左右には尾道では珍しい左右口を開けた獅子・狛犬がドカッと据えてある。
そして右手の一段高い墓地には、土居家累代の墓とともに、勝海舟が率いる咸臨丸に便乗し、英学や医術を修めて帰国後、三原の藩主・浅野候の知遇を得て、浅野藩の英学校につとめ、尾道では、長江の正授院に英語塾を開き後進の指導にあたった幕末の先覚者・土居咲吾(前名 長尾幸作)の墓がある。彼は尾道町中浜の医師長尾俊良の長男として天保6年(1835)に生まれ、明治18年(1885)51才の若さで永眠した。
写真では、ヘッドに西國寺大門(参道)から見るれんが坂の風景、そして下段の連続する写真は、れんが坂のほぼ中間地点から見た西國寺大門方向、やがてれんが坂の西端の付近、さらに進むと視野が一挙に広がり、目の前には福善寺の城山墓地と正面遠方に千光寺山が眼に飛び込んで来る。
西國寺大門からこの蓮華坂を中間点あたりまで上って行くと、右手に神道の愛宕祖霊殿がある。入口左手には、神宗斎廟・愛宕祖霊殿の石柱、その左右には尾道では珍しい左右口を開けた獅子・狛犬がドカッと据えてある。
そして右手の一段高い墓地には、土居家累代の墓とともに、勝海舟が率いる咸臨丸に便乗し、英学や医術を修めて帰国後、三原の藩主・浅野候の知遇を得て、浅野藩の英学校につとめ、尾道では、長江の正授院に英語塾を開き後進の指導にあたった幕末の先覚者・土居咲吾(前名 長尾幸作)の墓がある。彼は尾道町中浜の医師長尾俊良の長男として天保6年(1835)に生まれ、明治18年(1885)51才の若さで永眠した。
写真では、ヘッドに西國寺大門(参道)から見るれんが坂の風景、そして下段の連続する写真は、れんが坂のほぼ中間地点から見た西國寺大門方向、やがてれんが坂の西端の付近、さらに進むと視野が一挙に広がり、目の前には福善寺の城山墓地と正面遠方に千光寺山が眼に飛び込んで来る。
デンギ坂に関する雑感
それにしてもなぜ<デンギ坂>なのか。吾輩は得意の想像力を発揮し大胆な推測をした。『そうだ!これはきっと、この坂道に生えていた大きな樹木に稲妻が走り、雷がおちたのだ。それでデンギ坂と呼んだに違いない』。と云うと、「何をご冗談を」という方も居られるかも知れないが、吾輩は真剣なのだ。それにしても、「れんが坂」は、かつては丹花小路とも交わり、長江から防地、さらには番所に抜ける山の尾を伝う古道であったと思われる。それでは、雷が落ちる前は何と呼んでいたのか?という話になると、もうこれは判らん!!
後日談。吾輩には知的ネットワークなるものがあり、この「デンギ」なる漢字の意味を調べることに成功した。「木」偏に「電」の旁は「木」偏に「雷」の旁とほぼ同義語と思われ、「木+雷」の一文字には、(1)ライという木の名前(2)武器の名前で、石叉は木の円柱形のもので高所から推し落とすという意味があるそうだ。そんなわけで、「デンギ」は「ライボク」と読み、木を円柱形に削り、高所から推し落として殺傷する武器の名(大漢和辞典巻六 諸橋轍次著 大修館書店より)だとわかったが、これで益々判らなくなってしまった。それではなぜ大正4年の「尾道案内」には「デンギ」とわざわざフリガナがあるのだろうか。もうこれは吾輩の調査能力の範疇ではない、ということで幕にする。
と、思ったがまたまた後日談。何の気なしに入った本通りのとんかつ屋さんの壁に貼られた昭和7年の尾道町の古地図(発行/啓文社)を観ていたら、何と「れんが坂」が「蓮華坂」になっているではないか。なぜ、大正と昭和のたった17〜8年の間に呼び名が変わったのか。これまたミステリーだ。
後日談。吾輩には知的ネットワークなるものがあり、この「デンギ」なる漢字の意味を調べることに成功した。「木」偏に「電」の旁は「木」偏に「雷」の旁とほぼ同義語と思われ、「木+雷」の一文字には、(1)ライという木の名前(2)武器の名前で、石叉は木の円柱形のもので高所から推し落とすという意味があるそうだ。そんなわけで、「デンギ」は「ライボク」と読み、木を円柱形に削り、高所から推し落として殺傷する武器の名(大漢和辞典巻六 諸橋轍次著 大修館書店より)だとわかったが、これで益々判らなくなってしまった。それではなぜ大正4年の「尾道案内」には「デンギ」とわざわざフリガナがあるのだろうか。もうこれは吾輩の調査能力の範疇ではない、ということで幕にする。
と、思ったがまたまた後日談。何の気なしに入った本通りのとんかつ屋さんの壁に貼られた昭和7年の尾道町の古地図(発行/啓文社)を観ていたら、何と「れんが坂」が「蓮華坂」になっているではないか。なぜ、大正と昭和のたった17〜8年の間に呼び名が変わったのか。これまたミステリーだ。