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静寂の廃虚に夕闇が迫り、その深い眠りが王国の栄華に誘う

アユタヤと世界遺産/Ayutthaya


アユタヤと世界遺産/Ayutthaya
「アユタヤと世界遺産」という小難しいそうなタイトルを付けたこの旅のコメントは、長ったらしくまったく面白味のない内容となっている。それにはちょっとした理由がある。それは今回の旅が、ある経済団体の視察旅行ということで、まじめな吾輩にレポートを書くという白羽の矢を当ててしまった。吾輩はそのため、真剣にややこしくド真面目なレポートを書いてしまった、というのがその理由だ。
そして新たにホームページに書こうとしたのだが、真面目でない吾輩の怠け癖が出て、その報告書をそのままコピペしてしまった。そんなわけで、以下の文章は読まずに、写真だけを観てタイ国の古都アユタヤの少しの雰囲気だけでもお伝えできれば、と読者の皆さんには早めにご忠告することにした。

山田長政が活躍したアユタヤ王朝


ワット・プラ・ラム寺院に聳えるチェディ。その四方を固めるようにガルーダ(鳳凰)たちが両翼を広げ、古を偲ぶかのように空を見つめる。祖国を遠く離れ、アユタヤの王に仕えこの地に生きた山田長政とはどんな人物であったのか。あれから400年という永い歳月が流れている。静寂の廃虚には夕闇が迫り、その深い眠りが私たちを王国の栄華に誘う。
かつてアユタヤ王国を1359年に建国したウートン王の王宮があったというワット・プラ・シー・サンペット寺院。石仏頭が大樹の根に呑み込まれ、異様な光景を見せるワット・プラ・マハタート寺院。カメラのファインダーから見える、どのシーンも絵になるようだ。写真家気取りで思いを巡らせ、シャッターチャンスを伺っていた吾輩は、突然、静寂の中でけたたましく飛び立つ一羽の鳩によって、現実世界に引き戻された。アユタヤと世界遺産/Ayutthaya

私たちは、その朝バンコクのホテルを8時にチェックアウトし、片側3車線の高速道路をバスで約80q、北方面へ移動した。途中、邦人企業の現地工場二社の訪問を終え、このアユタヤに午後1時に到着したのだった。
昔、この国をシャムと呼んでいたと聞くが、実にその理由は、このアユタヤにあった。シャムとは『黄金の街』を意味するという。ウートン王の死後、遺骨を納めるためのチェディ(仏塔)が王宮に建造され、171sもの金で覆われた高さ16mの仏立像が作られた。また同様にワット・プラ・ラム寺院の回廊にも頭部を金箔で飾られた石仏が配置されるなど、まさにこの地には黄金に輝く寺院群が連なっていたという。

アユタヤの世界遺産


栄枯盛衰の歴史はどの時代にも繰り返される。417年の永きにわたり繁栄を誇ったアユタヤは、1767年ビルマ軍の侵攻により完全に崩壊してしまう。石仏はすべて首をはねられ、黄金は略奪された。その残骸が世界遺産として私たちの眼前に今、拡がっているのだ。アユタヤと世界遺産/Ayutthaya

アユタヤは、チェオプラヤー川を初めとした3本の川を運河で結び、その内側に東西約7km、南北4kmという規模の都市として築かれたものだ。この川に取り囲まれた地域に約400もの寺院群が存在する。さらに世界遺産に登録されていない川を越えた郊外にも約400の廃虚となった寺院群があるという。何故、このように膨大な数の寺院群が存在したのか。その謎は、どうやらアユタヤの王たちの中央集権化への戦略にあったらしい。王の権力を絶対化するため、周辺豪族の力を削ぐ必要があった。そのため、隣国ビルマとの戦争を定期的に繰り返し、停戦しては、寺院造営を命じた。その結果が、この800を数える寺院群の林立となったのだ。アユタヤは、まさに人類にとって一つの優れた文化的遺産であることを物語っていた。

世界遺産とは


浅学な吾輩は、「世界遺産」とはどういったものであるのか、またどういう経緯から亀田良一(1927-2018)尾道市長が世界遺産の登録をめざしているのか十分理解していなかった。そんなわけで、世界遺産とは何かと調べてみることにした。
『世界遺産』(小学館)によると、世界遺産とは1972年ユネスコ総会で採択された国際条約である世界遺産条約(正式には世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約−Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage−)のことで、
(1)文化遺産「Cultural Heritage」(人類にとって優れて普遍的な価値をもつ記念工作物、建造物群、遺跡、文化的景観など)
(2)自然遺産「Natural Heritage」(鑑賞上、学術上、保存上優れた普遍的価値をもつ地形や生物、景観などを含む地域)
(3)複合遺産「Mixed Heritage」文化遺産と自然遺産の、両方の価値を兼ね備えている遺産であるという。アユタヤと世界遺産/Ayutthaya

尾道が世界遺産の登録をめざそうとしているのは、複合遺産という分野であろうと私は推測するのだが、誤りであろうか。いまも世界有数の景観美を誇る瀬戸内海は、中国大陸や朝鮮半島との交易の道として、時代を越えて日本の大動脈として存在してきた歴史がある。瀬戸内海はいわば自然的文化的な複合世界遺産となるに相応しいポテンシャルをもつと考えてよい。
その中にあって、尾道は中世の文化的遺産を色濃く継承している拠点都市と位置付けられるのではないか。尾道三山(大宝山、愛宕山、瑠璃山)と尾道水道という自然によって仕切られた都市形成にとって理想的な空間(中心市街地)は、かつては港として物流拠点の機能を果たしながら、中世から近世までの数多くの寺院仏閣を今に保全している。さらに近代の車社会以前の路地空間も文化的遺産といえるものではないだろうか。
このように推論すると、尾道の中心市街地を「歴史地区」、その他の地域を「新市街地区」とし、さまざまな規制の強化や規制の緩和を明確化し、景観の成長管理を推進すること。さらに瀬戸内海の中世の遺構をとどめる港町と連携すること。これが尾道の歩むべき世界遺産登録への道であると思われる。

都市戦略としての世界遺産登録申請

今から14年前、吾輩は「尾道の歴史的景観を守る会」という任意団体で、景観保全運動に携わっていた。この運動では、吾輩は「尾道の景観は、単に古いものを保全するというだけでなく、景観を成長管理する(Growing Control)する」必要性を主張してきたが、当時の尾道では行政も民間も耳を傾ける者はほとんどいなかった。
景観を成長管理する思想は、自由主義の旗手であるアメリカ合衆国で誕生した都市計画の手法である。ある地域には規制を加え、他の地域では規制を緩和するという諸策を講じながら、民間の活力を一定の都市計画に誘導してゆく手法である。これによって、アメリカのアトランタをはじめ、多くの都市は美しい景観を形成しながら都市の活力を甦らせた。日本においては、ミナト未来21で名高い横浜市がその先進事例であろう。アユタヤと世界遺産/Ayutthaya

世界遺産登録をめざすまちづくりを進めていく上では、この「景観の成長管理」の手法を尾道市が取り入れざるを得ないときが来る。そして公共空間の共有、公共性を優先する思想が、尾道でも現実味を帯びてくるのではないだろうか。
文化的遺産である路地空間を、如何に維持再生していくのか。どのようにして歴史的建造物を保全するのか。市街地に氾濫する野外看板を規制し、どのように新たな景観を創りあげるのか。歴史と現代生活(不便さと便利さ)をどのように融合調和させるのか等々、さまざまな軋轢とそれを超える優れた智恵が必要となるだろう。
今回の視察旅行中、数名の方と議論するなかで「世界遺産の登録をめざすということは、尾道のまちづくりの目的ではなく、それは都市戦略の一つである」と意見が一致した。戦略には優れた戦術が必要である。幸いなことに、尾道には内外に多くの優れ者がいる。彼等の能力をどのように生かすか。その仕掛づくりが大いに期待されるところだ。(2005年2月28日)
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