歴史地区「尾道町」は、理想的なコンパクト・シティ空間
尾道三山と向島、その合間を東西に流れる尾道水道(海)に囲まれた歴史地区「尾道町(まち)」は、自然が作りあげた理想的で持続可能なコンパクトシティ空間だ。その空間に平安末期から現代まで永々と営まれてきた先人たちの生活の歴史が、尾道市の象徴的な都市空間に凝縮されてきた。この都市空間は、人間尺度で作られた理想的なコンパクト空間であると吾輩は断言したい。
その意味で、歴史を味方にして質の高い日常生活空間(文化・芸術・教育そして人流の港としての集積)を実現することが、尾道市が目指すべき将来像ではないかと思うのだが、吾輩一人だけの妄想だろうか。
日常遺産とは何か
「日常遺産」とは吾輩が勝手につけた名称である。その理由はこうだ。
日本の高度経済成長期(1954-1970)の流れにそって、全国の都市という都市が一律の顔に変貌してしまった。その流れに乗り遅れたのが尾道市で、その結果、映画監督・小津安二郎が見た当時の「尾道」の固有のテイストをそのまま「まち」に温存できたのである。
一周遅れの尾道は、平安末期から現代に至るまで重層的な町並みを不思議なほど運良く保つことができていた。その結果、他都市の人々から見れば、尾道の日常は「非日常」的風景であったといえる。その「非日常なる日常」は、明治、大正、昭和の、全国的には文化的価値のある建造物が、このまちに住む人々にとっては日常のものとしてしか見えなくなった。いわゆる「猫に小判」状態となったのである。そこで、吾輩は<尾道の日常>=<非日常的な文化遺産>として「日常遺産」という造語を作ったのである。この「日常遺産」の中には、国の登録有形文化財の資格がある近代建築が、尾道市がどういうわけか、登録有形文化財として文化庁に申請しない物件が多いのだ。
そんなわけで、小説家・林芙美子や映画監督の大林宣彦を輩出した土堂小学校や市内最古の久保小学校は、尾道市の登録有形文化財として申請されることもなく、解体されようとしている。何とももったいない話である。日本全国を見渡せば、数多くの近代建築がまったく新しい機能をもって再生している事実はいくらでもある。その一つ、東京都千代田区立練成中学校がアーツ千代田3331というアートセンターとして、台東区の旧小島小学校が台東デザイナーズビレッジに変身した事例だろう。知恵を出せば、これら旧市街地に点在する建築物が、尾道大学芸術学科との連携で新たな尾道市の活力の拠点に変貌する可能性も大いに高いと思うのだが…。
日本の高度経済成長期(1954-1970)の流れにそって、全国の都市という都市が一律の顔に変貌してしまった。その流れに乗り遅れたのが尾道市で、その結果、映画監督・小津安二郎が見た当時の「尾道」の固有のテイストをそのまま「まち」に温存できたのである。
一周遅れの尾道は、平安末期から現代に至るまで重層的な町並みを不思議なほど運良く保つことができていた。その結果、他都市の人々から見れば、尾道の日常は「非日常」的風景であったといえる。その「非日常なる日常」は、明治、大正、昭和の、全国的には文化的価値のある建造物が、このまちに住む人々にとっては日常のものとしてしか見えなくなった。いわゆる「猫に小判」状態となったのである。そこで、吾輩は<尾道の日常>=<非日常的な文化遺産>として「日常遺産」という造語を作ったのである。この「日常遺産」の中には、国の登録有形文化財の資格がある近代建築が、尾道市がどういうわけか、登録有形文化財として文化庁に申請しない物件が多いのだ。
そんなわけで、小説家・林芙美子や映画監督の大林宣彦を輩出した土堂小学校や市内最古の久保小学校は、尾道市の登録有形文化財として申請されることもなく、解体されようとしている。何とももったいない話である。日本全国を見渡せば、数多くの近代建築がまったく新しい機能をもって再生している事実はいくらでもある。その一つ、東京都千代田区立練成中学校がアーツ千代田3331というアートセンターとして、台東区の旧小島小学校が台東デザイナーズビレッジに変身した事例だろう。知恵を出せば、これら旧市街地に点在する建築物が、尾道大学芸術学科との連携で新たな尾道市の活力の拠点に変貌する可能性も大いに高いと思うのだが…。
尾道から消える明治から昭和の建造物
残念なことに尾道市は近年になって明治、大正、昭和の重要な建造物をどんどん取り壊してきた。その流れは、文化庁の「日本遺産」都市として尾道市が認定を受けた後も続いている。歴史を生かしたまちづくりとは無縁のように、尾道市民が「新庁舎建設の是非を問う」住民投票を求めた24,780筆の署名には、尾道市長も市議会も応えず、旧市庁舎と公会堂の解体した。
この新庁舎建設計画は、二つの重要な建築物を解体することを前提とした計画であった。文化的価値のある日本の近代建築として、日本建築学会中国支部が尾道市長に保存改修を求めた、建築家・増田智也設計の尾道市庁舎と公会堂である。二つの建築物は今はもう跡形もない。
2019年末、南海トラフの巨大地震とその高潮を想定しての「防災拠点」だとして、尾道市は、高潮が来る海辺に、しかも免震工法で、国交省の指針に反した液状化する敷地に、旧庁舎の2倍近い巨大な新庁舎を新築した。
尾道市が発表する住民基本台帳(1月31日付で外国人を除く)の人口統計によれば、一昨年は1,750人、昨年は2,706人の人口が減少している。このことから国立社会保障・人口問題研究所の予測より早く、2035年には人口10万人に限りなく近づくのではないか、という現実を尾道市は当然認識しているはずだ。しなしながら、国の合併特例債という借金を限度額近くまで使い、旧態然としたスクラップ&ビルドを未だに進める意図は、吾輩には理解できない。単純に考えても、近い将来、尾道市は、全国的な新型コロナウイルスによるダメージや人口減少による地域経済の萎縮の影響を受け、財政は一段と逼迫(ひっぱく)し、硬直化していくことが予想される。それでも尾道市の今までの流れを見れば、旧市庁舎と公会堂のように久保小学校と土堂小学校の校舎解体を進めるものと思われる。
この新庁舎建設計画は、二つの重要な建築物を解体することを前提とした計画であった。文化的価値のある日本の近代建築として、日本建築学会中国支部が尾道市長に保存改修を求めた、建築家・増田智也設計の尾道市庁舎と公会堂である。二つの建築物は今はもう跡形もない。
2019年末、南海トラフの巨大地震とその高潮を想定しての「防災拠点」だとして、尾道市は、高潮が来る海辺に、しかも免震工法で、国交省の指針に反した液状化する敷地に、旧庁舎の2倍近い巨大な新庁舎を新築した。
尾道市が発表する住民基本台帳(1月31日付で外国人を除く)の人口統計によれば、一昨年は1,750人、昨年は2,706人の人口が減少している。このことから国立社会保障・人口問題研究所の予測より早く、2035年には人口10万人に限りなく近づくのではないか、という現実を尾道市は当然認識しているはずだ。しなしながら、国の合併特例債という借金を限度額近くまで使い、旧態然としたスクラップ&ビルドを未だに進める意図は、吾輩には理解できない。単純に考えても、近い将来、尾道市は、全国的な新型コロナウイルスによるダメージや人口減少による地域経済の萎縮の影響を受け、財政は一段と逼迫(ひっぱく)し、硬直化していくことが予想される。それでも尾道市の今までの流れを見れば、旧市庁舎と公会堂のように久保小学校と土堂小学校の校舎解体を進めるものと思われる。
土堂小学校校舎の概要
広島大学大学院工学研究院院工学研究科 助教 水田 丞の小論文「尾道市立久保小学校・土堂小学校校舎について」(2020年3月5日)によると、「尾道市立久保小学校、土堂小学校の校舎は尾道の歴史文化を示す遺産、戦前の鉄筋コンクリート造小学校校舎の好例、そして地方都市の近代建築として、価値の高い建物といえる。」また「尾道市の中心部にあって現役の久保小学校、土堂小学校の校舎は全国的にみても貴重な存在である。」と指摘する。ここでは水田助教による論文の一部をご紹介する。まずは「土堂小学校の概要」から始めよう。
『尾道市立土堂小学校は、尾道の中心市街地の西側、駅の北東の高台に所在する。周辺は斜面市街地であり、小学校の付近には戦前の洋風住宅もいくつか残されている。また、敷地の西隣りには承和年間(834-848)に草創されたという持光寺が接している。土堂小学校の敷地もまた寺院と関係があるのかもしれない。
土堂小学校は、明治33年(1900)に設立された第二尾道尋常小学校を起源とする。現在のアーケード街に面した平坦な場所に敷地があった。明治36年(1903)に現在と同じ持光寺西側の敷地に工事をはじめ、翌年6月に木造二階建ての新築校舎を完成させた。大正9年(1920)に土堂尋常小学校と改称した。昭和2年(1927)には、校舎の南西に木造の講堂を建設している。昭和10年(1935)には、木造の校舎の東側部分(東校舎)を取り壊し、ここに鉄筋コンクリート造の新築校舎の工事に着手、昭和11年(1936)に完成した。(『土堂小学校創立八十周年記念誌』尾道市立土堂小学校 1980年)
土堂小学校の校舎は、鉄筋コンクリート造三階建てで、屋根は陸屋根である。南北に長い建物で、東側に戦後に建てた鉄筋コンクリート造4階建ての新校舎がとりつく。また、南側に3スパンの増築をおこなっている。玄関と階段を南端(増築部の北側)に置き、その上を塔屋状にする。外観は、平坦な外壁を基本とするが、玄関や塔屋の部分に枠をつけてグラフィカルに仕上げる。窓は1階と2階は方形だが、3階のみ半円アーチの縦長窓を並べている。内部は、西側に教室を並べ、東側に廊下を通す。教室の大きさは梁間方向に7.125m、桁行方向に9.1m、廊下の幅は2.25mで統一する。
土堂小学校校舎の設計の中心となったのは、前述した前田清二の跡をついで尾道市の営繕技師となった杉原修蔵が考えられている。』
『尾道市立土堂小学校は、尾道の中心市街地の西側、駅の北東の高台に所在する。周辺は斜面市街地であり、小学校の付近には戦前の洋風住宅もいくつか残されている。また、敷地の西隣りには承和年間(834-848)に草創されたという持光寺が接している。土堂小学校の敷地もまた寺院と関係があるのかもしれない。
土堂小学校は、明治33年(1900)に設立された第二尾道尋常小学校を起源とする。現在のアーケード街に面した平坦な場所に敷地があった。明治36年(1903)に現在と同じ持光寺西側の敷地に工事をはじめ、翌年6月に木造二階建ての新築校舎を完成させた。大正9年(1920)に土堂尋常小学校と改称した。昭和2年(1927)には、校舎の南西に木造の講堂を建設している。昭和10年(1935)には、木造の校舎の東側部分(東校舎)を取り壊し、ここに鉄筋コンクリート造の新築校舎の工事に着手、昭和11年(1936)に完成した。(『土堂小学校創立八十周年記念誌』尾道市立土堂小学校 1980年)
土堂小学校の校舎は、鉄筋コンクリート造三階建てで、屋根は陸屋根である。南北に長い建物で、東側に戦後に建てた鉄筋コンクリート造4階建ての新校舎がとりつく。また、南側に3スパンの増築をおこなっている。玄関と階段を南端(増築部の北側)に置き、その上を塔屋状にする。外観は、平坦な外壁を基本とするが、玄関や塔屋の部分に枠をつけてグラフィカルに仕上げる。窓は1階と2階は方形だが、3階のみ半円アーチの縦長窓を並べている。内部は、西側に教室を並べ、東側に廊下を通す。教室の大きさは梁間方向に7.125m、桁行方向に9.1m、廊下の幅は2.25mで統一する。
土堂小学校校舎の設計の中心となったのは、前述した前田清二の跡をついで尾道市の営繕技師となった杉原修蔵が考えられている。』
土堂小学校と久保小学校校舎の学術的価値
@尾道の経済的・文化的発展を示す建物であること
尾道は中世から続く海港都市であり、経済都市である。海上交易によってもたらされた経済的繁栄は浄土寺、西国寺、西郷寺など、日本の宗教文化の最先端を伝え、優れた寺社建築を現在に残している。久保小学校、土堂小学校の敷地も寺社とかかわりが深い。
明治以降も尾道の経済発展は続き、東京や大阪の企業が支店を構え、中心部には優れた近代建築が建設され、山麓には茶園と呼ばれる別荘が構えられた。文豪ゆかりの邸宅も近い。戦前の広島県では、広島と呉にしか建設されなかった鉄筋コンクリート造の小学校が建設されたのも、このような経済的発展、そして尾道がもっていた豊かな文化的背景があってのことである。
久保小学校、土堂小学校の両校舎は長い歴史と文化に培われた尾道の歴史資産として高い価値を有している。
明治以降も尾道の経済発展は続き、東京や大阪の企業が支店を構え、中心部には優れた近代建築が建設され、山麓には茶園と呼ばれる別荘が構えられた。文豪ゆかりの邸宅も近い。戦前の広島県では、広島と呉にしか建設されなかった鉄筋コンクリート造の小学校が建設されたのも、このような経済的発展、そして尾道がもっていた豊かな文化的背景があってのことである。
久保小学校、土堂小学校の両校舎は長い歴史と文化に培われた尾道の歴史資産として高い価値を有している。
A戦前の鉄筋コンクリート造小学校校舎の特性をよく示す建築であること
日本で鉄筋コンクリート造の小学校校舎が広く普及したのは、大正12年(1923)におきた関東大震災の復興事業の時である。震災直後の大正14年(1925)から昭和10年(1935)にかけて、東京の下町と呼ばれるエリア一帯に不燃化を目指した鉄筋コンクリート造の小学校(復興小学校)が数多く建設された。また、復興小学校と時期をほぼ同じくして、京都、神戸、大阪の関西の大都市にも鉄筋コンクリート造の小学校が多く建設されている。
戦前の鉄筋コンクリート造小学校校舎の意匠上の特色は、コンクリートの可塑性(型枠ができればどんな形でも作ることができる)を活かした造形にある。特徴的な外観の一つには壁の外側に柱型をつけて垂直線を強調したアールデコ風のデザイン(東京都の旧明石小学校校舎)、もう一つにはアーチや放物線を多用した表現主義風のデザイン(東京の泰明小学校校舎や京都の淳風小学校校舎)がある。また、当時流行していたモダニズムの意匠を参照し、ガラスで囲まれた開放的な階段室や大きくて四角い窓を連続させた外観も認められる(東京の旧四谷第四小学校)。
尾道の久保小学校、土堂小学校の校舎はこういった全国の戦前の鉄筋コンクリート造小学校のデザインと相通じるところが大きい。昭和初期の鉄筋コンクリート造小学校の特性をよく示した建築と評価できる。
B広島県では唯一の戦前のRC造小学校の遺構であること
関東と関西を中心に数多くの建物が建設された戦前の鉄筋コンクリート小学校だが、現在、その数が急速に失われている。東京の明石小学校校舎のように、取り壊しのニュースも後を絶たない。身近な存在であったがゆえに気が付いたら希少なものになっている場合もたくさんあるだろう。
戦前の広島県では、鉄筋コンクリート造の小学校校舎は広島、呉、尾道の3都市に建設された。そのうち、呉の小学校は現存しない。広島市内に建設された本川小学校、袋町小学校は校舎のほんの一部分が現存するだけである。既往の研究では岡山市にも鉄筋コンクリート造の小学校が建設されたというが現存してしない。おそらく、戦前の鉄筋コンクリート造の小学校をたてるだけの人口や経済力があった町がそう多くないだろう。すなわち、尾道の久保小学校、土堂小学校校舎は、中国地方でも唯一の戦前の鉄筋コンクリート造小学校かもしれない。
全国的にみても遜色のないレベルの建築作品が地方都市尾道に現役で残されている。それは市民の誇りにもなりうる。取り壊してしまうと二度と戻すことのできない財産であり、その保存が強く求められる。
以上のように、尾道市立久保小学校、土堂小学校の校舎は尾道の歴史文化を示す遺産、戦前の鉄筋コンクリート造小学校校舎の好例、そして地方都市の近代建築として、価値の高い建物といえる。』
鉄筋コンクリート造小学校校舎の保存整備と耐震補強
水田 丞助教によると、『今日、大正から昭和初期に建設された鉄筋コンクリート造建築は歴史的建造物として認知され、百貨店、銀行、県庁舎、大学校舎など、多種多様な建物が保存されている。積極的な活用が行われている事例も少なくない。また、鉄筋コンクリート造建物の耐震補強についても、建物が本来持っている価値を損ねることのない設計施工技術が開発され、多くの建物の修理で実績を残しつつある。以下では、代表的な事例について紹介する。
@文化財として保存する
戦前に建設された鉄筋コンクリート造小学校を保存する代表的な方法は文化財に指定すること、特に登録文化財としての保存が挙げられる。登録文化財制度とは、平成8年(1996)に始められた新しい文化財の枠組で、これまでの国宝重要文化財とは異なり、緩やかな保存を前提とした制度である。重要文化財と違い、現状の変更に対する規制も緩く、内部の改造等は規制がかからない。また、工事の種類や内容によっては国からの補助金を得ることができる場合もある。
登録文化財となった小学校校舎で具体的な例を挙げると、渋谷区立広尾小学校校舎(東京都)は昭和7年(1932)建築、飯田市立追手町小学校校舎(長野県)は昭和4年(1929)建築。いずれも現役の小学校校舎である。また、旧校舎が登録文化財になったものでは、山形市立第一小学校旧校舎(山形県)は昭和2年(1927)建築、豊郷小学校旧校舎(滋賀県)は昭和12年(1937)の建築である。
登録文化財となった小学校校舎で具体的な例を挙げると、渋谷区立広尾小学校校舎(東京都)は昭和7年(1932)建築、飯田市立追手町小学校校舎(長野県)は昭和4年(1929)建築。いずれも現役の小学校校舎である。また、旧校舎が登録文化財になったものでは、山形市立第一小学校旧校舎(山形県)は昭和2年(1927)建築、豊郷小学校旧校舎(滋賀県)は昭和12年(1937)の建築である。
A小学校を転用して再生する
最近では戦前の鉄筋コンクリート造校舎を別の用途に転用し、地域活性の起爆剤や文化発信の中心として再生した事例も多い。有名なものでは、京都市国際マンガミュージアムは昭和4年(1929)に建築された旧龍池小学校校舎を再生した建物である。用途変更を伴うため、防煙垂れ壁を新設したり、電気配線を天井下に走らせるなどの設計上の工夫が施されている。
同じ京都市内にある京都芸術センターは、旧明倫小学校校舎(昭和6年建築)を再生したもの。神戸市にある北野工房のまちは、旧北野小学校校舎(昭和6年建築)を再生したものである。
同じ京都市内にある京都芸術センターは、旧明倫小学校校舎(昭和6年建築)を再生したもの。神戸市にある北野工房のまちは、旧北野小学校校舎(昭和6年建築)を再生したものである。
B構造補強の事例
鉄筋コンクリート構造は型枠にコンクリートを流し込んで、固まらせてつくる。柱と梁、床や天井はすべて一体の構造物であり、木造建築と異なり一度完成してしまうと柱や梁をバラバラにすることはできない。この考え方は、煉瓦や石を積んだ構造物も同じである。したがって、鉄筋コンクリート造の構造補強にあたっては、既に存在している壁や柱、床などに後から鉄筋や鉄骨などを追加するという方法になる。
広島県では、ごく最近、大規模な鉄筋コンクリート造の歴史的建造物の構造補強が行われた。広島平和記念資料館本館(昭和30年)と世界平和記念聖堂(昭和29年)である。
広島平和記念資料館本館で採用されたのは、免振装置である。これは、建物の基礎を地面からいったん切り離し、新設した基礎と建物との間に積層ゴムを挟んだ装置を設置し、再び建物を装置の上に固定するというものである。これによって地震時に生じる建物の変形(柱や梁が変形することで建物が崩壊する)を低減することができるのだが、免振装置の採用には大掛かりな工事が必要となる。
世界平和記念資料館では、地盤の改良や、鉄筋コンクリート造の構造体の裏側に鉄骨のフレームや鋼の棒を挿入するという工事が行われている。特に背の高い鐘楼の部分は構造的に不安定なので、入念な補強が施されている。
壁の内側に新しく柱や壁を打ち増ししたり、既存の梁の下に鉄骨を入れて補強する方法も効果的である。』
広島県では、ごく最近、大規模な鉄筋コンクリート造の歴史的建造物の構造補強が行われた。広島平和記念資料館本館(昭和30年)と世界平和記念聖堂(昭和29年)である。
広島平和記念資料館本館で採用されたのは、免振装置である。これは、建物の基礎を地面からいったん切り離し、新設した基礎と建物との間に積層ゴムを挟んだ装置を設置し、再び建物を装置の上に固定するというものである。これによって地震時に生じる建物の変形(柱や梁が変形することで建物が崩壊する)を低減することができるのだが、免振装置の採用には大掛かりな工事が必要となる。
世界平和記念資料館では、地盤の改良や、鉄筋コンクリート造の構造体の裏側に鉄骨のフレームや鋼の棒を挿入するという工事が行われている。特に背の高い鐘楼の部分は構造的に不安定なので、入念な補強が施されている。
壁の内側に新しく柱や壁を打ち増ししたり、既存の梁の下に鉄骨を入れて補強する方法も効果的である。』