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明治に始まり令和元年6月に終えた尾道の「藤半」の長い歴史をひもとく。

藤半/Fujihan


藤半/Fujihan

東京『更科』本店の暖簾分けで尾道『更科』が誕生


車道から玄関に通じるアプローチ入口左手に寒桜が植えられ、右手には奇妙な猿と蛙の石像が置いてある。トップに掲載した石像は、料亭旅館時代の「藤半」にあったもののようだ。「サル(去る)ものも、待てばカエル(帰る)」という意味のある縁起ものだという。藤半/Fujihan

この店のルーツは明治時代に遡る。初代・加藤深治郎(俳号:對山、後に加藤對山と改名)が信州から尾道へ移り住み、相生小路の現在の喫茶「ドジクラブ」の地にあった、当時は木造四階建ての一階で「更科そば」を開業したことに始まるという。
加藤深治郎は東京『更科本店』の蕎麦職人であったが、信州松本にある蕎麦屋の萩原家当主・萩原常ニ郎(俳名:竹遊)の娘きんの婿養子となった。そして明治32年に萩原きんとの間に慶一郎が誕生した。ところが、折り合いが悪くなったのか、離縁してしまった。その後、深治郎は、東京「更科」の暖簾(のれん)分けを許されて、当時繁栄していた尾道の地に移り住み『更科』を出店したのだ。写真は、加藤深治郎に呼び寄せられた息子の慶一郎が尾道に到着した際に、川端通りで撮った記念写真(左端が慶一郎で、右端が信州松本の深治郎の元義父・萩原常ニ郎、中央の人物は不明)だという。

日本そば『更科』から食事のデパート“更科”、そして料理旅館『藤半』へ


やがて深治郎の尾道の生活も安定し大正4(1915)年に再婚、同年、深治郎の養子先であった萩原家との話がつき松本に残した息子の慶一郎(当時18才)を呼び寄せた。慶一郎は商才があったらしく、父深治郎(大正9年加藤對山と改名)から経営を任されるようになり、やがて木造四階建ての“食事のデパート”更科とした。この当時でも珍しい木造四階建ての"食事のデパート”は、当時の数枚の写真から相生町小路の元・入駒の木造四階建と想像する。
その後、久保本通りに支店を出店し、さらに江戸時代らか続いていた料亭「胡半(えはん)」を昭和10(1935)年頃に引き継いだ。この料亭「胡半(えはん)」は、別名「帆影楼」といい、幕末には藝州藩と長州藩の藩士たちが倒幕談義に集まって酒を交わした場所であり、明治37(1904)年7月20日、伊藤博文が広島宇品港から海路尾道に入り、宿泊場所とした尾道では格式の高い料亭であったらしい。
加藤慶一郎は「胡半(別名:濤聲帆影楼)」を引き継ぐと「藤半(ふじはん)」と改名し、「藤半」として再び尾道の華やかな時代を象徴する料亭旅館となった。料理旅館「藤半」のPRのために慶一郎が自ら描いたというチラシと写真を観ると、伊藤博文が泊まったと思われる木造三階が確認できる。
さらに慶一郎は、現在の飲食組合のような組織づくりを提唱し、同業者への料理指導や連携にも尽力したという。その活動は尾道市内にとどまらず、中国四国地方の県外各地でも出張の料理学校を行っていた。藤半/Fujihan
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「胡半」と「濤聲帆影楼」


藤半/Fujihan
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ここで、ちょっと「胡半」について調べたところ、出典は明確ではないが、1774年から古文書に出て来る妓楼「濤聲帆影楼」が別名「胡半」といわれ、幕末の慶応3(1867)年に芸州藩と長州藩の藩兵たちが集まって酒を呑み倒幕談義で騒いだ場所とも書かれている。また三原市歯科医師会史によれば、1907(明治40)年10月に広島県歯科医師会設立発起人会が尾道「濤聲(とうせい)帆影楼」で開催されたと記されている。さらに1925(大正14)年秋に日本を代表する一人の美学者であり、戦後初の尾道市立図書館長で、後に国立国会図書館副館長となった中井正一が若江ミチと結婚式をあげたのが、尾道随一の料理旅館「胡半」であった。
また「帆影楼」の前に「濤聲」と書かれていることから、江戸時代から明治にかけて、「胡半」は潮騒が聞える防地川河口西側の後地に位置し、大正・昭和・平成そして令和元年の今とはまったく違った風景、それは対岸の島には広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれる時宗の海徳寺の全景が見えていた風景を吾輩は想像するところだ。残念ながら、海徳寺は大正15年に全寺消失し、昭和3年に現在ある瑠璃山(浄土寺山)の西斜面に移転している。この海徳寺は、鎌倉時代後期の弘安十年(1287年)に、全国を津々浦々遊行した一遍上人が尾道に滞在し、念仏勧進された道場が起源と伝えられている。
最後に昭和6年の市街地圖には「帆影楼」と記載されていることを確認し、「胡半」と「濤聲帆影楼」は同一であり、時代を超えて尾道の晴れ舞台として役割を果たしていたことが伺える。藤半/Fujihan

大戦を経て新たな道へ


しかし、大戦時には経営は難しく、戦後は新たに生長の家の西日本錬成道場となり、進駐軍に接収されダンスホールとなっていた建物を利用した料理・作法などを学ぶ光明女学院(当時、俗にいわれた花嫁学校)を経営し、その後、仕出し料理、結婚式や披露宴などの宴会場も併設した尾道文化会館となる。藤半/Fujihan
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半世紀を経て、料理旅館『藤半』の暖簾を復活させた和食の店『藤半』


加藤家の系譜からいえば、加藤對山以降、加藤慶一郎と「とよ」の間に1917(大正6)年に生まれた加藤勝晴(まさはる)が「えいこ」と結婚。勝晴と「えいこ」は二男一女をもうけた。その中で1950 (昭和25)年生まれの次男が實(みのる)である。そして實は母親エイコと同じ読な名の栄子と結婚した。
1979(昭和54)年11月、仏蘭西料理を修行していた4代目加藤實が妻の栄子と共に相生通りの南側に小さな日本料理店「藤半」を構え、4年後の1983(昭和58)年には「胡半」「藤半」と続いた由緒ある敷地に、規模を拡大した現在の「藤半」を復活させた。
「藤半」は、お客一人から大型バス2、3台の団体まで対応できる尾道では数少ない店だ。団体客といっても出てくる料理には、手抜きはない。小魚は、地元の漁師さんの漁があるときは直接仕入れる。だから、他県のバスのドラバーやガイド嬢は「藤半」を褒めちぎる。猫の額ほど狭い尾道に珍しく、この店はひろい駐車場を持ち、昼定食、ミニ会席など気軽に楽しめる日本料理の店である。日本料理店でありながら、店内は栄子女将の趣味で随所に絵画が飾られ、内装が洋食レストラン風なのは、仏蘭西料理を修行した主人好みの雰囲気か。昼間は女将の好きなアイルランドのエンヤの美しい歌が流れている。

団体客を受け入れる施設の少ない尾道で、加藤ご夫婦は36年間にわたり頑張ってきたが、残念ながら長い『藤半』の歴史に終止符を打った。(2019年6月)

『藤半』の歴史を生かした料亭小宿『帆聲』へ


その後「藤半」は、福山鞆の浦にある「汀邸 遠音近音」「ホテル鴎風亭」「潮待ちホテル 櫓屋」「景勝館漣亭」を経営するグループ会社と土地建物の賃貸契約を行い、建物は大掛かりにリノベーションされた。
「藤半」は、2020年12月27日、新たに料亭小宿『帆聲(はんせい』として開業、「藤半」の歴史を生かしふたたび歴史を刻み始めた。加藤ご夫妻が開業前に『帆聲(はんせい』の食事に招かれたが、出される日本料理の質の高さは尾道でもトップクラスのもであったと太鼓判を押されているのを耳にした。料亭小宿『帆聲(はんせい』は洋風にいえば、オーベルジュを目指して作られたものではないかと吾輩は理解している。
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