水尾町が久保本通りに突き当たるあたりに「鎮神小路」の入口がある。ちょうど九十九呉服店の東の路地のようだ。文政4年の古地図では、すべての名前が手書きであるが、この二つの路地の名前は記されてなく、後世になって活字で「鎮守小路」とつけたされている。
また吾輩がかなり昔に入手した資料には、この二つの路地について、次のような一文が紹介されている。
『この路地の奥に井戸があって、そのすぐ斜め上に「熊野神社」が祀られている。そんなことから、この路地を「神様が鎮まりになる」という意味で「鎮神(ちんしん)小路」と名付けられたという。この神社のお祭りのときは、参詣者はこの路地を通って参拝し、帰りは社の前の石段から右に折れ、まっすぐ「築地小路」を久保本通りに抜けていく。』
この資料が正しいものとすれば、久保本通りの現場に建てられている金属製の道標は、あべこべの表示になっていることになる。
実際、路地の様子からは、霊験あらたかな趣のある石畳の路地が「鎮神小路」で、以前はアスファルトと一部コンクリートだった路地がいつの間にか、路地の中央に新しく御影石を縦に敷き参道のような雰囲気を演出しているのが「築地小路」、ではないかと吾輩は推察するが、そうなると、これはまさしくミステリーであり、調査の価値があると思うのは吾輩だけか。
一応、この路地の説明については、吾輩の推測する通り、年季の入った石畳の小路が「鎮神小路」で、その東側にある御影石を縦に並べここ数年の間に整備した痕跡のある小路を「築地小路」ということにしておく。それにしても、なんで「鎮神小路」は天井があるのかね。この路地はまるで建物をくり抜いてつくられたトンネル路地のように見えるのだが...。
最近、知った近世 尾道文化財マップ(尾道旧市街地編)を見ると、熊野神社へ通じる小路を「鎮守小路」と記載されているが、築地小路のことは書かれていない。これも時代時代で呼び名が変わっていたのかな、という程度に留めておこう。
この路地のバーチャル散歩はGoogle Mapではできなかった。一応、入口周辺の久保本通りでも散歩してくださいな。
また吾輩がかなり昔に入手した資料には、この二つの路地について、次のような一文が紹介されている。
『この路地の奥に井戸があって、そのすぐ斜め上に「熊野神社」が祀られている。そんなことから、この路地を「神様が鎮まりになる」という意味で「鎮神(ちんしん)小路」と名付けられたという。この神社のお祭りのときは、参詣者はこの路地を通って参拝し、帰りは社の前の石段から右に折れ、まっすぐ「築地小路」を久保本通りに抜けていく。』
この資料が正しいものとすれば、久保本通りの現場に建てられている金属製の道標は、あべこべの表示になっていることになる。
実際、路地の様子からは、霊験あらたかな趣のある石畳の路地が「鎮神小路」で、以前はアスファルトと一部コンクリートだった路地がいつの間にか、路地の中央に新しく御影石を縦に敷き参道のような雰囲気を演出しているのが「築地小路」、ではないかと吾輩は推察するが、そうなると、これはまさしくミステリーであり、調査の価値があると思うのは吾輩だけか。
一応、この路地の説明については、吾輩の推測する通り、年季の入った石畳の小路が「鎮神小路」で、その東側にある御影石を縦に並べここ数年の間に整備した痕跡のある小路を「築地小路」ということにしておく。それにしても、なんで「鎮神小路」は天井があるのかね。この路地はまるで建物をくり抜いてつくられたトンネル路地のように見えるのだが...。
最近、知った近世 尾道文化財マップ(尾道旧市街地編)を見ると、熊野神社へ通じる小路を「鎮守小路」と記載されているが、築地小路のことは書かれていない。これも時代時代で呼び名が変わっていたのかな、という程度に留めておこう。
残念ながら
この路地のバーチャル散歩はGoogle Mapではできなかった。一応、入口周辺の久保本通りでも散歩してくださいな。