久保本通りの勧商場入口よりほんの数メートル西に寄った山側に何とも風情のある路地に坂道がある。この路地を抜けて国道2号線に出ると、おのみちバスの停留所がある。かつてはこの停留所を楽天地口と呼んでいた。このバス停を降りると、最短距離で「新開」という歓楽街に行ける便利で楽しい停留所だ。ところが、今はどういうわけだか、西國寺下という名のバス停留所と名前を変えている。西國寺下バス停留所というには、西國寺大門からかなり西に外れ過ぎているのだ。いまどきナイトライフがないと町はさびれる。昔の楽天地口に戻せばいいのにと思うのだが、いかがだろうか。
話を戻して、夕暮れ時のこの路地には、思わず立ち止まりシャッターを切りたくなる、言い知れぬ魅惑が漂っている。看板のせいだろうか。路地坂の手前左側には、りっぱな御影石に「亀齢水」という文字が彫り込まれた堂々たる井戸もある。この路地の名を「風呂ノ小路」というが、由来は判然としない。
その昔、光明皇后(701-760)が仏教の教えに従い、奈良法華寺の施浴(せよく)において千人の民衆の垢を洗い流すことを決めたという千人風呂の話もある。西國寺か常称寺あたりが、湯殿(風呂)を作って庶民に垢を洗い流させていたののかも知れない。
そんな由来を想像させる風呂ノ小路から国道2号線を渡り、レンガ造りのJR山陽本線のガードを潜ると正言小路に合流する。鉄道ガードの山側入口の上部には、小路の名前が書かれていると昔聞いてはいたが、ガードの化粧直しのペンキで塗り潰されたか、あるいは風化で消えてしまったものか、残念ながら確認できなかった。ガードを潜りすぐ左折し、正言小路の西端となる石段を上がれば、常称寺に通じる。
山陽本線は尾道旧市内の三山の裾に沿って、大きく曲線を描きながら敷かれていて、その線路の下を何本ものガードが施設され、山側と海側の往来の通り道となっている。そして年代物の鉄道ガードのほとんどは、南側が煉瓦作りで北側はコンクリート製となっているのを見かける。これは明治24年(1891)に山陽鉄道が福山と尾道間で開通した当時には単線だったという証でもある。
話を戻して、夕暮れ時のこの路地には、思わず立ち止まりシャッターを切りたくなる、言い知れぬ魅惑が漂っている。看板のせいだろうか。路地坂の手前左側には、りっぱな御影石に「亀齢水」という文字が彫り込まれた堂々たる井戸もある。この路地の名を「風呂ノ小路」というが、由来は判然としない。
その昔、光明皇后(701-760)が仏教の教えに従い、奈良法華寺の施浴(せよく)において千人の民衆の垢を洗い流すことを決めたという千人風呂の話もある。西國寺か常称寺あたりが、湯殿(風呂)を作って庶民に垢を洗い流させていたののかも知れない。
そんな由来を想像させる風呂ノ小路から国道2号線を渡り、レンガ造りのJR山陽本線のガードを潜ると正言小路に合流する。鉄道ガードの山側入口の上部には、小路の名前が書かれていると昔聞いてはいたが、ガードの化粧直しのペンキで塗り潰されたか、あるいは風化で消えてしまったものか、残念ながら確認できなかった。ガードを潜りすぐ左折し、正言小路の西端となる石段を上がれば、常称寺に通じる。
山陽本線は尾道旧市内の三山の裾に沿って、大きく曲線を描きながら敷かれていて、その線路の下を何本ものガードが施設され、山側と海側の往来の通り道となっている。そして年代物の鉄道ガードのほとんどは、南側が煉瓦作りで北側はコンクリート製となっているのを見かける。これは明治24年(1891)に山陽鉄道が福山と尾道間で開通した当時には単線だったという証でもある。