リトアニアの第2の都市・カウナス
カウナスは、少なくとも10世紀に遡ることができる歴史都市だ。16世紀にはリトアニア大公国のもとで大きく発展したが、17〜18世紀にかけてロシア、スウェーデン、フランス・ナポレオン軍など諸外国の侵攻を受け、また疫病の流行などもあって街は荒廃した。その後、19世紀には盛り返し、20世紀に入ってリトアニアの最大都市として発展したが、第2次世界大戦にはソビエト連邦に占領され、ドイツ軍の侵攻により街は破壊されるという数奇な運命をたどってきた。大戦後は工業都市として再び復活し、1991年リトアニアのソビエト連邦からの独立により、現在に至っているという。
カナウスは歴史的、文化的情緒を漂わせた落ち着きのある街だった。だったというのは、過去がそうであったという吾輩の確信めいた想いからで、落書きが目につくのがちょっぴり気掛かりではあるが、現在のカナウスでも魅力は充分にあるという意味も含まれている。
この都市は、現在の首都ヴィリニュスの西約100kmに位置し、「日本のシンドラー」といわれる杉原千畝(すぎはらちうね)がリトアニア日本領事館の領事代理として活動したゆかりの地だ。
カウナス城跡を訪れて、最初に目に止まったのが、奇妙な植物たちだ。左の木の幹は、随分と紆余曲折の生きざまをしてきたようで、その証が凸凹の節となっているのでは、と想像するのだが...。その点、右の木々たちは、ご主人様に左向け左で等間隔に急カ−ブを描きながら、不思議なくらい従順に整列してる。
それにしても、この街の建物は美しい。石畳の合間には緑の草が芽を出し、落ち葉が可憐な初冬を演出する。旧市庁舎では歴史を生かし、昔の建築の一部分をそのまま、新しい建築に取り入れてるという斬新さも見られる。落ち着きのある街並みと石畳の路地は、リトアニア第一の文化都市としての雰囲気を醸している。大聖堂では、内部の撮影を許され、そこはデジカメの威力で、フラッシュを焚かず、吾輩はさり気なく厳かにシャッターを切ることができたのだ。
カナウスは歴史的、文化的情緒を漂わせた落ち着きのある街だった。だったというのは、過去がそうであったという吾輩の確信めいた想いからで、落書きが目につくのがちょっぴり気掛かりではあるが、現在のカナウスでも魅力は充分にあるという意味も含まれている。
この都市は、現在の首都ヴィリニュスの西約100kmに位置し、「日本のシンドラー」といわれる杉原千畝(すぎはらちうね)がリトアニア日本領事館の領事代理として活動したゆかりの地だ。
カウナス城跡を訪れて、最初に目に止まったのが、奇妙な植物たちだ。左の木の幹は、随分と紆余曲折の生きざまをしてきたようで、その証が凸凹の節となっているのでは、と想像するのだが...。その点、右の木々たちは、ご主人様に左向け左で等間隔に急カ−ブを描きながら、不思議なくらい従順に整列してる。
それにしても、この街の建物は美しい。石畳の合間には緑の草が芽を出し、落ち葉が可憐な初冬を演出する。旧市庁舎では歴史を生かし、昔の建築の一部分をそのまま、新しい建築に取り入れてるという斬新さも見られる。落ち着きのある街並みと石畳の路地は、リトアニア第一の文化都市としての雰囲気を醸している。大聖堂では、内部の撮影を許され、そこはデジカメの威力で、フラッシュを焚かず、吾輩はさり気なく厳かにシャッターを切ることができたのだ。
記憶すべき日本人・杉原千畝の偉業
遠く海外に出て、同胞の誉れに接するのは何とも言えず嬉しいものだ。映画「シンドラーズ・リスト」を鑑賞された方も多いと思うが、戦争という悲劇の中にも、人道主義を貫く人がいるという事実を知ることで、我々はホッと救われる。増して、それが同胞であってみれば、なおさらのことだ。
第二次世界大戦初期の1940年、リトアニアの日本領事館代理を務めていた杉原千畝は、本国の命令に背き、ナチスの迫害を怖れ、ポーランドから逃げ延びたユダヤ人たちに、半ば無制限に日本通過ビザを発給することを決断した。千畝の手により発行されたビザが、少なくとも6,000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたといわれている。
カウナスにある旧日本領事館は、現在、杉原記念館として保存されている。 その館内の一角に、日本地図が壁に貼られ、日本から来た訪問者の出身地をマークしていた。吾輩も、当然ながらわが尾道の場所にマークシールを貼った。
「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、争ったりせずに、みんなで手を繋ぎあって、回っていかなければなりなせん...。」「人間にとって、一番大切なのは、愛と人道だ。」「私のしたことは、外交官としては間違ったことだったかも知れない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは人間として正しい行動だった。」と、杉原千畝は語っている。
国益とは何か、正義とはなにか、真実とは何..。複雑にからみ合う価値観との葛藤の末、選んだのは人道だった。千畝の功績を知り、吾輩はリトアニアの夕暮の空を晴れやかに眺めた。こんなに美しい空があるのだ。
カウナスからリトアニアの首都ヴィリオニュスに移動した翌日、杉原千畝を顕彰する石碑をみることができた。(2006年10月)
第二次世界大戦初期の1940年、リトアニアの日本領事館代理を務めていた杉原千畝は、本国の命令に背き、ナチスの迫害を怖れ、ポーランドから逃げ延びたユダヤ人たちに、半ば無制限に日本通過ビザを発給することを決断した。千畝の手により発行されたビザが、少なくとも6,000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたといわれている。
カウナスにある旧日本領事館は、現在、杉原記念館として保存されている。 その館内の一角に、日本地図が壁に貼られ、日本から来た訪問者の出身地をマークしていた。吾輩も、当然ながらわが尾道の場所にマークシールを貼った。
「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、争ったりせずに、みんなで手を繋ぎあって、回っていかなければなりなせん...。」「人間にとって、一番大切なのは、愛と人道だ。」「私のしたことは、外交官としては間違ったことだったかも知れない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは人間として正しい行動だった。」と、杉原千畝は語っている。
国益とは何か、正義とはなにか、真実とは何..。複雑にからみ合う価値観との葛藤の末、選んだのは人道だった。千畝の功績を知り、吾輩はリトアニアの夕暮の空を晴れやかに眺めた。こんなに美しい空があるのだ。
カウナスからリトアニアの首都ヴィリオニュスに移動した翌日、杉原千畝を顕彰する石碑をみることができた。(2006年10月)