「暁」は超一級の日常遺産
今は数少ない三階建て木造家屋で、入口のドアは洋酒の木箱で作られている。このドアの開閉には御用心!使い込んだドアだけに、押すか引くかよーく見てから、開閉をお願いしたい。
店内に入った途端、通路の両側には、この店を訪れた文化人、著名人の記念写真がズラリと並ぶ。あまりの多さに、初めてのお客は、この両壁に飾られた写真に見入り「アッ、この人、○○さんだ!」「凄いわねぇ...」と釘付けだ。
さらに驚くのは、店内の壁面だ。世界90カ国から集めた洋酒ボトルが5,000本(日本一)、ところ狭しと棚に飾られている。天井に吊り下げられた洋酒メーカーの灰皿とそれらの洋酒ボトルに、この店の年輪を感じさせる。年季の入ったカウンターで、二代目佐藤軍治さんがシェイクする「千光寺の桜」「沈黙の艦隊」といった暁オリジナルカクテルを味わいながら、どことなく懐かしい尾道のエスプリに浸るのもまた格別だ。この店を愛する客は老若男女と幅広い。お酒の飲めない方は、エスプレッソでこの雰囲気を味わうことをおすすめしたい。
舶来居酒屋「暁」の歴史
山陽日日新聞の廃業により現在は尾道新聞に籍を置きながら、尾道学研究会の活動に没頭する林良司さんが調べたところでは、終戦の年の昭和20(1945)年に初代の佐藤幸雄さんが「カフェー暁」の店名で開店。店内にあった洋酒のボトル・コレクションは、この初代店主が長年蒐集したものだった。昭和61(1986)年に幸雄さんが他界された後は、大学生当時から店に立ち、父の手伝いをしていた軍治さんが2代目として店を引き継ぎ、尾道の名物店として切り盛りされてきたという。
店内入口から壁面に飾られた多くのスナップ写真は、戦後の尾道の文化的側面を物語る。全国的に著名な人々が尾道に訪れ、夜にはこの店で美酒を楽しみ、二代にわたる店主が自らカメラのシャッターを切り、記念の写真撮影を行うことが恒例だったようである。
吾輩の主人はこの店のファンの一人で、昭和63(1988)年から11年の長きにわたり企画を担当してきた『<食談>ー我等、尾道派』に招聘した大勢の著名な文化人たちをイベント終了後に『暁』に招き、ゲストをもてなす店としていた。
この『食談』は、金沢の食(フード)とそれを育んだ風土(フード)を満喫するイベント『フードピア金沢』をモデルとして、尾道にふさわしい食文化イベント「グルメ・海の印象派ーおのみち」の柱の一つであった。
店内入口から壁面に飾られた多くのスナップ写真は、戦後の尾道の文化的側面を物語る。全国的に著名な人々が尾道に訪れ、夜にはこの店で美酒を楽しみ、二代にわたる店主が自らカメラのシャッターを切り、記念の写真撮影を行うことが恒例だったようである。
吾輩の主人はこの店のファンの一人で、昭和63(1988)年から11年の長きにわたり企画を担当してきた『<食談>ー我等、尾道派』に招聘した大勢の著名な文化人たちをイベント終了後に『暁』に招き、ゲストをもてなす店としていた。
この『食談』は、金沢の食(フード)とそれを育んだ風土(フード)を満喫するイベント『フードピア金沢』をモデルとして、尾道にふさわしい食文化イベント「グルメ・海の印象派ーおのみち」の柱の一つであった。
片岡義男が読み解く「暁」
作家・片岡義男は、『企みのない過去の蓄積」男の独り言vol.6で次のように書いている。
「(前略)......バーの数は多いけれど、『暁』はじつに多くの意味において、少なくとも僕の知るかぎりでは、日本一のバーだ。いまからこういう店を作ろうとしても、とうてい作れるものではない。地元での歴史は存分に豊かだし、二代目の店主の人柄は、店そのものだと言っていい。尾道という場所、そしてそこにこの店があるという事実も、絶対正解のような正解だと、僕は思う。
初めてこの店に入って過ごした二時間ほどは、僕にとっては大切な過去だ。同行したふたりの仲間も、およそ考え得る最高の人選だったことだし。』
「暁」が尾道から消えた!
2008年3月、店の扉に突然、貼り紙が貼られた。「休業」の文字が訪れる人々を驚かす。いつから再会するのか、誰も知らない。また尾道の色が消えるのだろうか....。その後、2011年のオーナーからの年賀状に「暁は終業します」と書いてあった。
これは、吾輩の飼い主にとっては尾道の将来の危うさを予感させる出来事だったようだ。今の尾道は、先人たちの積み重ねて来た歴史という蓄積、それを守り支える都市力と文化度が低迷し脆弱になっていることを暗示するものだ。
尾道出身で尾道をこよなく愛した大林宣彦映画監督が常々言っておられたことがある。それは文化を理解する人々であれば、誰もが異口同音に指摘することだ。「尾道は高度経済成長から乗り遅れ、尾道が全国的にみてどん尻になったと思っているが、そうではない。日本のほとんどの都市が画一化され、同じ顔になってしまった。しかし、尾道はそういう意味では、全国の都市が失ったものを温存している。その魅力は将来的には注目されるトップランナーになり得る可能性をもっているということだ」と。
これは、吾輩の飼い主にとっては尾道の将来の危うさを予感させる出来事だったようだ。今の尾道は、先人たちの積み重ねて来た歴史という蓄積、それを守り支える都市力と文化度が低迷し脆弱になっていることを暗示するものだ。
尾道出身で尾道をこよなく愛した大林宣彦映画監督が常々言っておられたことがある。それは文化を理解する人々であれば、誰もが異口同音に指摘することだ。「尾道は高度経済成長から乗り遅れ、尾道が全国的にみてどん尻になったと思っているが、そうではない。日本のほとんどの都市が画一化され、同じ顔になってしまった。しかし、尾道はそういう意味では、全国の都市が失ったものを温存している。その魅力は将来的には注目されるトップランナーになり得る可能性をもっているということだ」と。