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「藤半」の加藤家の写真アルバムから見る大正11年から昭和2年の尾道の日常風景。

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加藤家から見た尾道の大正・昭和初期/KatoFamily


加藤家から見た尾道の大正・昭和初期/KatoFamily

加藤深治郎(後に對山と改名)の尾道移住


加藤家が尾道に根を下ろすことになったのは、明治40年代後半頃に加藤深治郎が尾道移住を決断したことによるものだ。加藤深治郎は1874(明治7)年6月20日に父・加藤勝四郎と母・かきの次男として現在の愛知県瀬戸市に生まれた。
深治郎は成長し、東京の「更科」で蕎麦職人として厳しい修行を重ね一人前の蕎麦職人となった。その後、縁あって信州松本にある蕎麦屋の店主・萩原常ニ郎(俳号を竹遊)の娘・萩原きんの婿養子となった。
1897(明治30)年2月22日、萩原深治郎ときんの間に慶一郎が誕生、深治郎が23歳のときだった。ところが、萩原深治郎・きん夫婦は、どういうわけか離縁してしまった。
その後、深治郎は東京「更科本店」の暖簾(のれん)分けを許されて、当時繁栄していた尾道の地に移り住み、『更科』を出店したのだ。加藤深治郎の頑張りと尾道では珍しい蕎麦屋で、しかも東京『更科本店』暖簾分けの店ということもあり、店は軌道に乗った。
大正4年、山口生まれで後に神戸に移住した岩内とくと再婚。この年、信州松本の萩原きんとの間にもうけた慶一郎(当時18歳)を尾道に呼び寄せると共に、慶一郎の嫁に迎えるべく、名古屋から加藤深治郎の姪である松本とよを呼び寄せた。とよは、慶一郎から見れば従姉妹で、慶一郎18歳、とよ14歳であった。大正6年3月15日には、この慶一郎ととよの間に勝晴(まさはる)が誕生した。
それにしても、加藤深治郎(大正9年10月に加藤對山と改名)は、どういう縁で新天地として尾道を選んだのだろうか。 加藤深治郎は歌舞音曲が好きだったようで、それは婿養子に入った松本の蕎麦屋の主人で義理の父・萩原常ニ郎に大いに影響されたのではないだろうかと吾輩は推測している。その根拠は、孫の慶一郎を尾道まで連れて来た萩原常次郎が、松本には帰らずそのまま尾道を終の住処としたという事実である。当時の尾道は歌舞音曲華やかな町であり、義理の親子関係にあった常次郎と深治郎は、共に俳号をもつ二人の相性の良さが想像されるのだ。

明治・大正時代の尾道の繁栄


明治・大正時代の尾道の活気を伺える資料として、吾輩が手掛かりとしたのは、中國實業遊覧案内社が大正4年4月20日に発行した吉田松太郎著の「尾道案内」だ。当時の尾道は、今では想像できないような海路陸路の一大拠点であり、人流と物流の拠点として栄えていたようだ。大正4年発刊の「尾道案内」によれば、「古来商業の発達せると、風光明媚、気候優良なるとにより、旅客の来往頻繁を極め、宿屋業を営むもの百十三戸」とある。また今の新浜啓文社付近は四千坪の尾道家畜市場が大正元年に設立され、「牛馬市場に於ける一ケ年の取扱頭数三万頭以上に達し該市場の、全国牛市場中の第一位」なった。そして尾道町で、当時の主要な移動手段であった人力車総数は二百台を有していたと記されている。
娯楽については、生花、抹茶、煎茶、謡曲が流行していたようで、劇場と寄席は、偕楽座(定員2,000名)、世界館(定員800名)、湊座(定員500名)、明治座(定員500名)、料亭は今井楼、胡半、尾道ホテル、大佐楼、六好楼、大好花檀、六萬楼、今井出店、待月楼、竹村家とある。また花柳界では芸妓(げいぎ)は「置屋十戸、芸妓三十五名を有し」、遊郭は「置屋三十六軒、お茶屋十九軒、芸娼妓三十七名・娼妓六十一名を有せり」とも記されている。
このように当時の尾道を想像すると中国地方でも有数の賑わいのある「まち」であり、そのような尾道の噂は加藤對山にも届いていたことだろう。

加藤家の写真アルバムから見た尾道の大正から昭和初期


歌舞音曲好きだったという加藤對山の尾道での生活が安定し、信州松本から18歳の息子・慶一郎を尾道に呼び寄せたのが、偶然ながら「尾道案内」発刊の年でもある1915(大正4)年のことだった。
その後、昭和8(1933)年9月15日発行の『尾道大鑑』(発行者/尾道大鑑編輯所 代表者 八幡義朗)によれば、当時の尾道の状況が多岐にわたり驚くほど詳細に記載されている。その中には、宿屋組合員名簿90軒の旅館名と経営者の名前が記されており、34歳となった加藤慶一郎の経営する「更科」(尾道市久保町291)は、料理とカフェ及びバーの二つの業種分類に掲載されていた。
商才のあった慶一郎は、「更科」をより発展させ、写真のような"お食事のデパート”「更科支店」を開店、さらに昭和10(1935)年頃には江戸時代から続く料亭「胡半(えはん)」を引き継ぎ、料理旅館「藤半」と改名した。
吾輩は、当時の写真アルバムをお借りして「藤半」の大まかな歴史を書き終えつつあった。そこに加藤家より木造4階建の写真が見つかったとのご連絡があり、新たなアルバムに見入ってしまった。そこはまさに大正時代の尾道の日常が撮されていた。
加藤家から見た尾道の大正・昭和初期/KatoFamily
このページに掲載した写真のうち、木造4階建の外観や食堂風景、床の前に正座する男性写真はすべて大正11年に撮影されたもの。これらの状況から推察すると正座する和服の男性は、尾道に根を下ろし7年を過ぎた23歳当時の加藤慶一郎であろうかと思われる。
次に筒湯尋常小学校入学式の記念写真は昭和2年4月でご存命であれば97-8歳、数えてみると1学級に58名の生徒数だ。
またモダン建築の渡瀬屋呉服店の改築後の開店記念日の写真は、大正14年10月10日と書かれている。渡瀬屋呉服店は、現在の久保本通りPARIGOTに隣接する場所にあったという。その付近には昭和初期に大松百貨店も開店していたということから考えると、久保本通りは大層な賑わいのあった場所だと想像できる。
そして床いっぱいに巨大な鯛を描いた掛け軸が飾られた大広間での宴席の写真は昭和10年頃のもの、ということは「胡半」を「藤半」と改名してのお披露目の記念写真であろうと吾輩は勝手に推測している。そのほかの日常の写真は大正から昭和の初め頃のものと思われる。

木造4階建ての"食のデパート『更科』は何処に



4階建の木造建築と聞いて初めは驚いた。尾道町には木造3階建ては今でもあるが、4階建の木造建築物があったというのは吾輩の記憶は曖昧だった。その曖昧さは、当初より気がかりだった記憶の中にある相生通りの木造の「入駒」の記憶の曖昧さでもあった。それが3階であったか、それとも4階であったかというと、大いに記憶が曖昧だった。
その疑問点を確認する前に、加藤家より4階建の写真があったという連絡が入った。吾輩の脳細胞は、その建物は今感覚で当時は賑わいのある久保商店街あたりにあったのではないかと勝手に思い込んでいたのだが、4階から撮ったと書かれている西國寺の写真や東南の方向に見える町並み(大正10年初冬撮影)を見ていると、本通りより南に4階建ての建物が位置していることは明白となった。となると、どこに4階建の“お食事のデパート”「更科支店」が建てられたものか、皆目わからなくなってしまった。

古写真を頼りにIT技術で探す、木造4階建の「更科支店」


そんなとき、ITにめっぽう強い吾輩の指南役S先生がGoogle3Dで古写真の撮った位置方向を確認してみようとご提案いただいたのだ。ところが4階の高さ位から見える写真が残念ながら表示できなかった。それではと、次なるGoogle Earthにトライしようと画像と古写真をキョロキョロ見比べしてみたが、確証は得られなかった。
加藤家から見た尾道の大正・昭和初期/KatoFamily
そんなわけで努力の過程を写真でお見せするのだが、四階建の建物が果たしてどこに位置していたのか、結論が出ないままだ。大正11年の夏に撮影された4階建の写真を拡大してみると、商店を挟んだ二軒目には遊郭と思しき「遊喜楼」の屋号の提灯が下げてあるのがわかる。
尾道の路地裏をウロウロしている吾輩の臭覚と鋭敏な感では、写真を撮った建物の場所は厳島神社の西側であることは確かで、洋酒居酒屋「暁」があった路地のすぐ西側の新地新開のどこかではないかと思っている。

木造4階建は「更科支店」ではなく「更科本店」


その後、「入駒」のご主人・江木孝義氏にお話をお聞きすることができ、木造4階建の建物は吾輩が写真を見て推測した通り、洋酒居酒屋「暁」があった南北の通りと相生町小路の交差する場所、現在の喫茶店ドジクラブのある場所であり、「入駒」が「ドジクラブ」を新築するにあたり、解体した建物は木造4階建であったことが判明した。
そして、「入駒」は加藤慶一郎が「胡半」の経営を行うに当たって、木造4階の「更科」を閉店したので、その後に入居したというのが真相であった。そのため加藤慶一郎が新たに支店として出店した“お食事のデパート”「更科」が木造4階建だという前提が間違いではないかと思うようになった。
「更科支店」開業時の4名の若い女性が並んで撮った記念写真の店構えと写真を撮るために必要な距離から想像する道幅と、二枚の木造4階建の一階部分の写真を拡大し比較すると全く異なる店構えと道幅であることがわかった。木造4階建の店の一階は和風で「更科」という暖簾が掛けてり、通りの道幅などから相生通りの「更科」の本店ではなかったかと思っている。そして加藤慶一郎が出店した「更科支店」は久保本通りで、現在の「PARIGOT」の隣接地にあった渡瀬呉服店の近隣あたりではなかったかと、アルバムにある写真や4代目加藤實さんのお話などで推測している。(2020年1月11日)
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