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思えば半世紀近く寄り添った愛車、完璧に蘇らせて送り出そう。

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さらば、フェアレディZ432/FairladyZ432_2


さらば、フェアレディZ432/FairladyZ432_2

目玉だけはまだ元気


『手放そうと思うと、吾輩の悪い癖で、それではより完璧な状態にして嫁に出そうと手を加えていくので、車は最高のコンディションにどんどん近づくばかりだ。
2013年8月17日、以前より気になっていたデフレンシャルギアのカキンという金属音を直そうと車検整備を兼ねてドックインした。その結果、デフのバッククラッシュ調整、パッキン他、足回りブッシュ、強化デフマウント等々の交換を終え、音はピタリと止まり、足回りはピリッと締まった。さらば、フェアレディZ432/FairladyZ432_2

それでもより完璧を!と細部が気になる吾輩の性分。2013年10月30日、エンジンルーム内にあるさまざまなメッキ部分をメッキ工場に出し、ピッカピッカに再生させるため、ふたたびドックイン。約一週間で仕上がってくるという。 時間が経つにつれ、ヨタヨタしてくる吾輩の肉体。それに比べて、この車だけには若返りの特効薬を与え続けてきたわけで、そのギャップは大きくなるばかり。情けないと思いながらも、こればかりはどうにも埋めようがない。
瞬時に7,000回転近くまで噴上がるS20のパワーに、もうすぐついていけなくなるのだと実感しつつも、ひたすらほかに直すところはないかとキョロキョロしている吾輩の目玉だけはまだ元気がいい。』

性能が落ちた耳


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『吾輩の左耳は24時間夏の蝉の耳鳴り状態で、高音を聞き取る性能が低下し、体温計の音が聞きとれない。それでも、不思議なもので、この車の異音に関してだけは敏感で、小さな音にもすぐ反応する。一ヶ月前のある日(2014年2月)、助手席後部の下あたりからチリンチリンという小さな異音がするのに気付いてしまった。早速にその原因を追求しなければ落ち着かないという吾輩の性分。またまたドックインして調べてもらうと、どうもイグゾースト・チューブ(タコ足)とマフラーのジョイント部あたりに問題がありそうということになった。
主治医・高田さんの案内でピットにもぐり、車体の裏を眺めていると、十年あまり前に鉄製のマフラーに小さな穴が開いていて、溶接で急場を凌いでいたことを思い出した。主治医の高田工場長と相談し、社外品ではあるが腐食の心配がないZ432用ステンレス・フルスケール・デュアルマフラーがあると聞き、すぐさま注文してしまった。
その翌日、チリンチリンという音は止まっていた。推測するに、主治医がマフラーを揺ったりしていたのでイグゾースト・チューブとマフラーの継ぎ目の密着度がよくなった結果だと一人で納得した。
2月末、新品のステンレス フルスケール デュアルマフラー(432専用)を装着し、エンジンをかけて驚いた。もの凄い爆音がするのだ。これには閉口し、消音器を取り付けて音を下げてもらう工夫を依頼した。主治医は即座に対処療法を考えた。
2014年3月8日、新しいマフラーの装着後では初めてのキャブレター調整も行い、スロー回転が今までになくスムーズで、タコメーターはピタリと1,000回転を示している。排気音も注文通りにやや小さくなり(とはいっても純正マフラーの排気音よりは大きい)、交換前とは違った音色だが、力強く気持ちが良い。』

さらに手を加えるところ


『マフラー交換により排気が一段と効率よくなったのか、エンジンのパワーアップを感じる。秘められたポテンシャルが引き出されたようで、アクセルの踏み込みにレスポンスが小気味好い。そしてついに、リアのナンバープレートに比べ、かなり汚れや痛みのあるフロントのナンバープレートだけを再交付してもらった。文字通り新車登録時のナンバープレートが甦った。
古くなった車に手を加えるというのは際限がないものだ。たまたまフロントウインドの掃除をしていたら、ガラスウェザー・ストリップが硬化していて、角のモールを押さえる部分が2〜3cmほど破損しいるのに気付いた。部品が入手できるとのことで、再びドックイン。2014年7月4日、弾力性のある新品ウェザーストリップがフロントガラスにぴったりはまった。
8月に入り、運転席、助手席の床に錆と腐食による穴を発見し、ステンレス板を使用して以後20年は問題ないとの保証付き改修を完了し、最近の防音シートや片面ゴム板のついたフェルトを新調し、万全を期した。またスペヤタイヤの格納部にも錆を発見し、30年前にポルシェカラーの黄色に塗装していただいた小林鈑金塗装で錆止めを塗布後、再塗装していただいた。これ以上、手を加えるところはなくなってしまった。
なぜ、そこまで完璧に補修を行ったか。それはたまたま吾輩の旧世代のWEBSITEのページをご覧になった関西と関東のお二人の方が、ほぼ同時期に吾が愛車へラブコールを送ってこられたからに他ならない。嫁に出す親の気持ちと同じかも知れない。吾輩の青春時代を共に過ごしてくれたこの愛車に最善を尽くし、ベストの状態で、送り出してやりたかっただけのことである。』

惚れたFairladyは3台


【ダットサン フェアレディ1500】


『1968(昭和43)年4月に運転免許を取ったばかりで、大学の夏休みを利用して、初めて九州一周の長距離ドライブに出た。車はダットサンFairlady 1500 (SP310型/1488cc)で、3座席の真っ赤なオープンカー。その容姿に吾輩は一目惚れしていた。車の所有者が実兄だったので、貸してくれないかと頼んだら、兄弟のよしみで拝借できた。この車は、1966(昭和41)年に中古で兄が入手したときは、空色だったと記憶している。それを真っ赤にオール塗装したのだ。このフェアレディとの初ランデブーが、吾輩とフェアレディという名の車と、その後の長いお付き合いの始まりであった。(残念ながら、このダットサン フェアレディは、吾輩の知らぬ間に売却されてしまった。)
この九州一周のドライブについては、また別の機会に書こうと思うが、詳細は正直言っておぼろげな記憶を辿るしかない。高校時代の悪友・林原均を助士席に乗せて、ひたすら走った。当時のことだから高速道路という便利なものは中国、九州地方にはなく、特に高千穂から阿蘇に抜ける一部の道は地道で凸凹の悪路、とにかく車高の低いスポーツタイプには悲惨な嬢状況だった。さらば、フェアレディZ432/FairladyZ432_2

旅の行程は、尾道→山口(泊)→別府(泊)→阿蘇→熊本→鹿児島(車泊)→宮崎(泊)→高千穂→阿蘇→熊本→嬉野(泊)→尾道の5泊6日約1,600kmを吾輩一人で運転したのを覚えている。
大学生の分際で、オープンカーで長距離ドライブとは贅沢な!と思われる方が多いと思うが、実際には親戚を頼って2泊と車中泊1泊で、2泊だけが安い旅館という格安の旅だった。それにしても、スポーツカー特有の硬いクッションとリクライニングもできないシートの当時の車で、よくも体力があったものだと今では感心するばかりだ。』

【FairladyZ432尾道へ来る】


『1969(昭和44)年の秋頃だったか、懇意にしていただいていた内科医 H氏が吾輩に日産が新たに発売した車のカタログを見せてくださった。それがFairladyZ432だった。6気筒で24バルブDOHC、1989ccのS20型を搭載し、ソレックスの3連を装備した最高出力は160ps/7000rpm、最大トルクは18.0kgm/5600rpmという、当時では超パワフルーなエンジンを搭載したスポーツカーだ。ダッシュボードはまるで飛行機のコックピットのように思えた。翌年の1月、そのカタログの車が尾道にやってきた。さらば、フェアレディZ432/FairladyZ432_2

初めてその車を運転させて貰ったのが、国道184号線の中国電力尾道営業所あたりの直線の道だった。運転席に座ってボンネット越しに前方を見ても、車の先が見えない。そして左手でハンドルを握ったまま、窓ガラスを下ろして右腕の肘をドアから出そうしても開口部の位置が高く、その動作が滑稽なように思え一人笑ってしまう。エンジンを始動しゆっくり動かすと、エンブレが強くまるで装甲車に乗っているような感覚を覚えた。やがてアクセルを力強くと踏み込むと、驚きのパーワーでスピードメーターが飛び跳ねる。この車に乗ったあと、すぐに当時のトヨタマークIIの運転をしたら、まるで軽四に乗っているような感覚だったことを鮮明に覚えている。唯一、残念だったのは、FairladyZシリーズがオープンカーではなくなったことだ。以後、このFairladyZ432ことが脳裏に焼きついた。

【Fairlady240ZGを発見!!】


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『1974(昭和49)年頃だったと思うが、福山市の中古車センターに並ぶ一台の白いFairlady240ZGを見つけてしまった。ほとんどチェックもせずに買い取った。手に入れてみたらシャコタンで、吾輩はこの車を“じゃじゃ馬”と名付けた。
まずはシャコタンを正常に戻した。その後そのまま乗ればよかったのだが、Z432のことが忘れられず、たまたま知り合いから声がかかり、ウェーバーのキャブレター45口径3連を譲り受けたので、標準装備のツインのソレックス・キャブレターを外し、装着してもらった。どなたか存じ上げないが、過去のオーナーからこの車との縁を切るためナンバープレートを替えた。当然なことのようにタイヤはMICHELINのVRとKONIショックアブソバーで足を固め、シートベルトは四点ものに替えた。しかしながら、メカニックには皆目弱い吾輩のこと、エンジンパワーは随分アップしたが、しょっちゅう修理工場へ格納し、エンジン調整をし続けるハメとなった。車はやたら改造するものではない。ここでも純正品であるZ432への思いが強まった。
そこで240ZGのロングノーズとオーバーフェンダーのスタイルを生かし、下部をつや消しのブラック、上部を雑誌でみたイタリアのスーパーカーのランボルギーニ(?)のブルーに変え、ツートンの塗装を施した。ミラーをドアミラーにし、ボンネットに穴をあけエンジンルーム内部の熱を放出する空気抜きをつけ、吾輩のイメージ通りの仕上がりに満足した。
この240ZGで2回ほど東京往復の長距離ドライブをしたが、初めて東京までひとり旅をしたとき、途中のパーキングでバックギアが入らなくなり、車を一人で押して後退させたのを覚えている。どうしたものか思案したが、尾道へ帰るわけにも行かず、そのまま東京まで行き、杉並の日産にドックインした。その後、ユーミンの歌「中央フリーウェイ」よろしく中央自動車道を相模湖(?)まで走ったことをおぼろげに記憶している。帰りは尾道へ一直線、当時は怖いもの知らずで、吾輩は四点シートベルトをしっかり締めて東名高速でスピードメーターを振り切った。』さらば、フェアレディZ432/FairladyZ432_2

LAST DRIVING


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長々とした吾が飼い主の話とはガラリと変わるが、吾輩は飼い主に「なぜ愛車を手放すのか」と聞いてみた。その答えはこうだ。
『吾輩は、尾道のまちづくりに40年近く関心をもってきた。そして、尾道の未来に夢を託しながら、さまざまな活動に関わってきた。そこで見えてきたものは、尾道に住む多くの人々は、恵まれた自然環境と先人たちが長い歳月をかけて蓄積してきた歴史都市のもつ本質的な価値を見失っているということだ。その結果、尾道のもつ非日常的な風景や本質的なものへの価値観が疎んじられ、どこにでもある目先の流行りごとを追随し、まちの風景はうすっぺらになっている。現に、尾道の人口はどんどん減って行き、かつては文化のまち尾道と言われたが、その文化レベルも低下しているのが現状だ。
いい例が尾道市の行政と市議会だ。今の尾道市は歴史文化を積極的に生かすまちづくりを放棄して、リスクのある合併特例債という国の飴に飛びついて、文化的価値のある旧市庁舎や公会堂を解体し、「大規模な市庁舎新築」などスクラップ&ビルドの時代遅れの箱物行政に一歩も二歩も踏み込んだ。そして問題なのは、尾道市の未来像がまったく見えてこないことだろう。
平成27(2015)年、尾道市は文化庁の日本遺産都市に認定されたが、その後も昭和の歴史的建造物をどんどん解体し、地域住民の反対を無視し、歴史的都市に不似合いな競艇の舟券売り場建設にも手をかした。
そんなまちに愛車を置いておくのは勿体ない。』
そして『2014年9月8日、吾輩は70年代の青春ともおさらばすることを決意し、ラストランは740km、新車当時の快適さで最後の長距離ドライブとなったが、富士山もくっきり見えて実に爽快だった。もうあの黄色の”FairladyZ432”は尾道で見かけることはない。』と訳の分からぬ答えだった。
吾輩が想像するのはこうだ。「武士は食わねど高楊枝」で経済的な困窮か、あるいはこの愛車を乗りこなす後継者が周囲にいないための『断捨離』か、はたまたどんどん落ちてゆく尾道の都市力を見抜いて、この地で愛車を乗り回すのが恥ずかしくなったのか。そうでなければ愛車「じゃじゃ馬」を乗りこなす体力的な自信喪失というところだろう。あとは皆さんの推測に委ねることにする。

愛車の分身


長年、同じ車に乗りつづけていると困ることがある。それは部品切れだ。よく日産部品の会社に顔を出していたので、FairladyZ 432専用のパーツブックをもらった。そんなわけで、小さな部品が壊れても自分で見つけては注文していた。 ところが初めて部品切れに遭遇したのだ。それも大切なデュアルマフラー。しかたなく応急処置をしてもらって、そのまま乗っていたら10年余は過ぎていた。鉄製はどうしても腐食しやすいので、先のことを考えて、社外品のステンレス製マフラーに替えた。その結果、役割を終えた大きな鉄製マフラーは、わが家に飾るわけにもいかず、廃棄してもらった。
それにしても、お人好しの吾輩は、新車当時のハンドルやタコメーターなど、気前よく知り合いにあげていた。今になって思うのだが、馬鹿なことをしたものだと反省しきりだ。結局、わが家にある愛車の分身は、写真のフェンダーミラー、アンペア計と燃料計、新車当時のエンジンキーとドアキーたち、そして432を甦らせたプロフェッショナルの高田さんが、吾輩にメモリーとして製作してくださった、432のオーバーホールで使えなくなったピストンと二本のバルブにメッキを施した部品たちだけが手元にあるだけだ。(2021年3月24日)
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