中心市街地を山陽本線に沿って曲線を描いて通る国道2号線。この国道沿いにある笠井外科病院の東側に、民家に挟まれ窮屈そうな常称寺山門がある。これをくぐると久保本通りに合流する。この道はかつては山陽本線を越えて常称寺本堂(国重文)まで続く参道で、常称寺山門は室町時代(1353年)に建てられた国の重要文化財だ。この参道は文政年間(江戸時代後期)には、常称寺大門と呼ばれていた。
この門を海に向かってくぐり、さらに久保本通りを横切ると、我々が現在、石屋小路と呼ぶ路地に出る。この路地は文政年間では、当時あった海蔵寺に至る道で、海蔵寺小路と呼ばれていたようだ。この路地の先は、昭和の時代までは、賑わいを見せていた新開という歓楽街の一角に突き当たるのだ。
1821年(文政4年)の古地図によると、石屋町とはこの常称寺大門と海蔵寺小路(今は石屋町と呼んでいる)、そして本通りの東側地域を「石屋町」と呼んでいたようで、古地図には石屋勘十郎、石屋源三郎、石屋嘉右ヱ門、石屋助四郎、石屋友八、石屋五郎兵衛等々の名前が連なっている。昭和の頃かどうかは定かではないが、石屋町は元の松本病院西側の、古地図に海蔵寺小路と記載された小路、極めて狭い範囲を指すようになった。この海蔵寺小路の先にあったはずの海蔵寺は跡形もなく、この一帯が石屋町と呼ばれていたことから、その名残として小路の呼称としたのではないかと吾輩は推測する。いまの石屋町は埋め立てにより海から遠く離れているが、16世紀の古には、この付近まで海であったため、石材の積み込みが便利であったという。
大正4年(1915年)発刊の「尾道案内」によると、当時の久保町(現・久保1〜3丁目)には14軒の石細工の店があり、その大半がこの地域にあったと思われる。残念ながら、今ではその面影は全く見られない。
尾道の石工の技術は相当優れていたらしく、尾道の石を切り出し大阪城の石垣に使われたと伝えられ、さらには天正17年(1589年)の広島城築城に際して、尾道の石工が広島に移住し「尾道村」を形成したとも云われている。
尾道町の随所には、その手腕を偲ぶに相応しい様々な石造作品が今も見られるので、吾輩の新たな被写体として、後日みなさんにご紹介しよう。
かつて、この小路には化粧品店、数件のバー、お茶屋さんがあったが、現在は美容室と路地の突き当たりに鮮魚店が健在で、数匹の猫がよくチョロチョロしている。2019年4月13日現在、石屋町に新しく2軒の店が出店間近のようだ。聞くところによると1軒はレストラン(イタリアン?)であと1軒は何故か文房具店らしい。
この門を海に向かってくぐり、さらに久保本通りを横切ると、我々が現在、石屋小路と呼ぶ路地に出る。この路地は文政年間では、当時あった海蔵寺に至る道で、海蔵寺小路と呼ばれていたようだ。この路地の先は、昭和の時代までは、賑わいを見せていた新開という歓楽街の一角に突き当たるのだ。
1821年(文政4年)の古地図によると、石屋町とはこの常称寺大門と海蔵寺小路(今は石屋町と呼んでいる)、そして本通りの東側地域を「石屋町」と呼んでいたようで、古地図には石屋勘十郎、石屋源三郎、石屋嘉右ヱ門、石屋助四郎、石屋友八、石屋五郎兵衛等々の名前が連なっている。昭和の頃かどうかは定かではないが、石屋町は元の松本病院西側の、古地図に海蔵寺小路と記載された小路、極めて狭い範囲を指すようになった。この海蔵寺小路の先にあったはずの海蔵寺は跡形もなく、この一帯が石屋町と呼ばれていたことから、その名残として小路の呼称としたのではないかと吾輩は推測する。いまの石屋町は埋め立てにより海から遠く離れているが、16世紀の古には、この付近まで海であったため、石材の積み込みが便利であったという。
大正4年(1915年)発刊の「尾道案内」によると、当時の久保町(現・久保1〜3丁目)には14軒の石細工の店があり、その大半がこの地域にあったと思われる。残念ながら、今ではその面影は全く見られない。
尾道の石工の技術は相当優れていたらしく、尾道の石を切り出し大阪城の石垣に使われたと伝えられ、さらには天正17年(1589年)の広島城築城に際して、尾道の石工が広島に移住し「尾道村」を形成したとも云われている。
尾道町の随所には、その手腕を偲ぶに相応しい様々な石造作品が今も見られるので、吾輩の新たな被写体として、後日みなさんにご紹介しよう。
かつて、この小路には化粧品店、数件のバー、お茶屋さんがあったが、現在は美容室と路地の突き当たりに鮮魚店が健在で、数匹の猫がよくチョロチョロしている。2019年4月13日現在、石屋町に新しく2軒の店が出店間近のようだ。聞くところによると1軒はレストラン(イタリアン?)であと1軒は何故か文房具店らしい。