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昔ながらの人と人。優しいねぇ。尾道にこんなところもまだあったのだ!

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しみず食堂/Shimizusyokudou


しみず食堂/Shimizusyokudou

危機を乗り越える「しみず食堂」

1998年9月の土堂海岸には、終戦直後に建てられたバラック建築のマーケットがまだ残っていた。ここは日本の中のアジアを肌で感じる場所だ。この真ん中に「しみず食堂」がある。このお店の創業は、1946(昭和21)年というから、飲食店で創業50年を越える店舗は、尾道ではそんなに多くはないだろう。
上の写真は、「しみず食堂」が終戦直後から営んで来きた店先で、記念写真として撮ったもの。向かって右側に立つのは、吾輩の飼い主にまちづくりの多くを教えてくださった織田直文(1952-2016)、当時の彼は滋賀総合研究所の主任研究員(その後、京都橘大学教授)だった。
「しみず食堂」のミエちゃん(お店の娘さん)の笑顔にお母さん味付けの料理、そして何よりも誰にでも分け隔てなく迎える優しさが実にいい。瀬戸内の小魚の煮付けが楽しめるこの店は、現代人が忘れかけた大切なものを思い出させる。
そんなお店があるバラック建築の海岸マーケットが、尾道市の車社会中心の昔に計画された道路拡張工事で、今年(1998年)の10月末に取り壊されることになった。
マーケットには十数軒の店が営業していたが、4店舗を除き大半は廃業を決めた。ミエちゃんは、悩んだあげく何としても「しみず食堂」の持続することを決断した。
そんなわけで、尾道市はアっという間に、4店舗が営業できる場所として、ある民間駐車場の一角にプレハブを設営した。この仮店鋪で、これから約1年半の営業となる。尾道市では、その後の処遇を検討しているそうだが、どのようになるかは、まだ分からない。
仮店舗の場所は、いままであった場所から20〜30メートル東、海辺を離れた道路の北側にある駐車場の一角だ。「しみず食堂」は道路から数えて2軒目の場所となるという。この仮店舗は一番質素な工事用プレハブで、夏の暑さを思うと劣悪な環境だが、尾道と「しみず食堂」が大好きな人々で、何とか続くように応援したいものだ。(1998年9月)

「しみず食堂」の魅力(1)

しみず食堂/Shimizusyokudou
2000年尾道駅前再開発事業完了とともに開催されたイベントで、尾道駅前の海辺にある芝生広場の東側にプレハブが建てられた。その後、そのプレハブに4軒の入居者が公募され、無事「しみず食堂」がその一軒として出店できることになった。
戦後間もなくの1946(昭和21)年の開業以来、今年で創業75年目を迎える「しみず食堂」の店内には、創業者清水ウメノ(1913〜2007)さんのポスターが飾られている。そして陳列ケースに並べられた今は懐かしい尾道の家庭料理、煮魚、焼き魚と巻寿司など昭和の時代そのままだ。
そんな「しみず食堂」の顔ともいうべき、ウメノさんと看板娘のミエちゃん(美江子さん)の二人三脚も、ウメノさんの他界により、今ではミエちゃんとご主人の実(みのる)さんペアに代わった。ご主人は海の男だったが、しまなみ海道開通により仕事を奪われ、この店を仕事場に選んだのだ。
ウメノさんの料理の味付けを引き継ぎながら、有名人もそうでない人も、ミエちゃんの分け隔てなく迎える優しさは、今もまったく変わらない。それだけにこの「しみず食堂」には多くのファンがいる。ちなみに、脚本家で小説家の早坂暁(1929-2017)、報道写真家の石川文洋(1938-)は、この店にゾッコン惚れた人たちだ。しみず食堂/Shimizusyokudou

「しみず食堂」の魅力(2)

しみず食堂/Shimizusyokudou
しみず食堂/Shimizusyokudou
瀬戸内の小魚の煮付けや焼きものが楽しめるこの店は、現在は海が見える尾道駅前の芝生広場の一角で、現代人が忘れかけた大切なものをジワ〜ッと思い出させる。
天気の良い日には、無理を頼んで店の裏側に出てテーブルに椅子をセットすることをおすすめする。尾道と対岸の向島を行き交うフェリーや尾道水道を通り抜ける様々な船を眺めながら、小魚の煮付や巻き寿司を頬張りながら、そよ吹く潮風にビールがあれば、まさに至福のひとときとなる。
しみず食堂/Shimizusyokudou
しみず食堂/Shimizusyokudou

フィリピンのセブ島で、尾道に出会った!!

1996年3月、尾道では有名な洋酒喫茶・貝の店「ロダン」のご主人石川さんが、旧知のフィリピンのコーストガード隊長のセブ島に構えるご自宅を訪ねるツアーに、吾輩の飼い主が同行させてもらったときの話だ。
飼い主曰く、「当時のセブ島は、リゾートホテルや隊長のご自宅の敷地の内と外では、全くの別世界だった」という。「塀の外の野良犬は肋骨が浮き出るほど痩せ細り、隊長のご自宅で飼われる犬は丸まるとしている。夜の路上には、女性が赤子を抱き座ったまま、もの乞いをしている。内と外を隔てる塀は、同じ国でありながら貧困と豊かさを完全に分断していた。そして日本のことを思えば、物価が実に安く、物売りのアイスクリーム価格は、観光客向けと住民向けの二重価格だった。」と回顧する。
「確か、旅の最終日だったと記憶するが、隊長が『今日は、太平洋の[幻の島]にご案内しよう』ということで、吾輩たちは彼が所有する大きな木造船に乗り込み、船はやがて桟橋を離れていった。
セブ島から2〜3時間くらいだったか、とろりとろろと進む船に揺られて着いたところは海のど真ん中、引き潮になると現れる砂州だった。吾輩は船から降りて、海面から2〜30cm下に現れた砂浜を歩いた。遠くから見ていると、いつの間にか吾輩は仙人となり、海の上を歩いているように見えたことだろう。」と記憶をたどって満悦顔だ。
[幻の島(天国の島)]とは、調べてみるとサンドバー(Sandbar)と呼ぶらしく、ハワイにもあるらしい。
それにしても、今回の旅で一番の驚きだったのは、船が港を出てものの数分、何気なく港の方を振り返るとびっくりしてしまった。目に飛び込んできたのが、尾道の土堂海岸に並ぶバラック建築と見紛う光景だったのだ。

2つのバラック建築のマーケット

1940年大阪市に生まれ、1944年に尾道市へ転住し高校時代まで過ごした小説家・森岡久元が、2016年5月に尾道市立大学で「第3回尾道学入門公開授業」を行った内容を自らまとめた『戦後尾道駅前広場の光景』によると、次のことが明らかになってきた。
1945(昭和20)年終戦直後のどさくさで、食料も建材も入手困難な時代に、尾道駅前の一帯に粗末なバラックの闇市場兼住居の小屋が建てられ、国際マーケットと呼ばれる尾道市民の物資の調達場所となっていた。
マーケットの住人たちは朝鮮、中華民国系の人たち、国内の戦災被害者、海外からの引き揚げ者たちだった。
1946(昭和21)年9月、GHQ呉民事部の命令により、国際マーケットのうち、24軒あまりが駅前桟橋から東側海岸にあった市有地に移転した。新たなマーケットには、24戸150人あまりが住み、尾道市の水道が敷かれ、市税も徴収されて飲み屋街として存続したきたが、1965(昭和40)年11月に尾道市による強制撤去で、何の補償もなく取り壊されてしまった。今では考えられないことだ。
新たな国際マーケットと呼ばれた木造バラック建築は、床の3分の1が市道の上で、残りの3分の2は、広島県が管轄する海上にせりだし、海の中に杭打ちしそれを柱として床を支えた。海上部分の使用は広島県によって認可された。その後、さらに東の曲がり雁木に沿ったところに30軒あまりの海岸マーケットが形成され、尾道に二ケ所の闇市場が誕生したという。
吾輩の飼い主が、まだ小学生の低学年であった1950年代の頃のことだと思うが、母親に連れられて尾道駅前桟橋に繋がれた二階建てのデッキがある大きな船に乗ったらしい。その船が桟橋を離れ、向きを変えるため船を後進させていて、突然バリバリバリという大きな音がした。その音は、バラック建築の床を支えている海の中に打ち込まれた杭と床が壊れる音だった。その記憶が今も脳裏の片隅にあるという、国際マーケット唯一の記憶だという。

最後の海岸マーケットが消えた!

しみず食堂/Shimizusyokudou
かつて、と言っても今から23年前のしまなみ海道開通の1998年まで、土堂海岸に終戦直後に建てられたバラック建築の最後のマーケットがあった。1970年〜80年代には、尾道市民が愛称で「一円ポッポ」という福本渡船の桟橋から西に向かって、たこ焼きさんさく、ホルモンかもめ、八幡テンプラ、岩渕豆店、志津香食堂、植田商店、徳山商店、加藤鮮魚店、尾道海岸商業協同組合、しみず食堂、大衆食堂遊喜の家、大阪屋洋品店、小林雑貨店、皆越園茶舗、藤代金物店、あさひや食堂などの店舗がマーケットに建ち並んでいた。このマーケットは、全国的にも希少価値のある、日本の中のアジアを感じる場所で、全国に多くのファンを持っていた。
しみず食堂/Shimizusyokudou
しかしながら、その存在意義が殆どの行政、経済界では理解されぬまま、「不法建築物は排除する」という短絡的な発想と、40〜50年昔に計画された車中心の道路拡張事業を現代的に再評価することもなく実行し、1998年10月海岸マーケットはあっさり壊されてしまった。
1980年代には、尾道建築士会青年部は「シーサイドにウッドデッキ」を構想し、尾道青年会議所も尾道のシーサイドの復活を唱えていろんな海辺のイベントを開催した。
しかしながら、土堂海岸通りは、当時の尾道市もただ道路拡張するだけで、街並みやシーサイドに関する何らまりづくり政策を企画することもなく、セットバックさせられた民間は狭くなった敷地を有効利用するため、新たにのっぽの建築物を建て海を隔てる壁となった。
この道路拡張以前の海岸通りを知る者は、どこにでもある味気ない新しい通りとなったと落胆する。赤瀬川原平と共に尾道によくお呼びしたイラストレーターの林丈二も、その一人だった。そして吾輩が予想していた通り、国道を通る車両より、海岸を走る車両が多くなり、車の違法駐車も増大した。
しみず食堂/Shimizusyokudou

「しみず食堂」と海岸マーケットが解体撤去されると聞いて、多くのカメラマンが尾道にやってきたはずだ。ランドスケープアーキテクト戸田芳樹から吾輩に連絡が入り、東京から写真家の田村彰英が尾道に訪れるので宜しくとのことだった。吾輩はお役に立てなかったが、お会いしてご挨拶だけはしたと記憶している。写真家の尾道に対する印象は、ファインダーから見た尾道の「風景に厚みがある」ということだった。
崩れかけていた江戸時代に造られた曲がり雁木と、その上に建つ終戦直後からあったあのバラック建築物は、一つの歴史遺産であったのだが、保存活用することもなく、その文化的価値を理解されぬまま姿を消した。歴史を生かしたまちづくりの手法は残念ながら生かされなかった。

東御所町8-99 Pなし
TEL 0848-23-5283
定休日/水曜日
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