風景の原点は尾道
戸田芳樹は常々『自分の風景の原点は、尾道にある』と語る。それは瑠璃(浄土寺)山、摩尼(西國寺)山、大宝(千光寺)山の三山に囲まれた尾道の旧市街地と対岸の向島、その間を緩やかな曲線を描いて流れる海(尾道水道)が創り出す空間をいうのだろう。
吾輩がそれを語るより、ずっとレベルが高く的確に表現された、ある文章を(株)戸田芳樹風景計画のウエッブサイトの中でみつけた。
それはNEWSというカテゴリーで、年度別に会社に関連した色々な出来事を記録したもの。その中をあちこち覗いていたら、2018年10月に社員研修旅行で尾道に来られたスタッフの皆さんが書かれたレポートに運良く出会ったというところだ。
数あるレポートの中で、タイトルは『尾道の古寺巡りと戸田のデザインのルーツ』というものを一つ選んでみた。尾道という町の特徴や魅力、そして戸田芳樹の風景デザインの原点を的確に表現されていると感心した吾輩は、是非ともご紹介したいと思った次第だ。
尾道の古寺巡りと戸田のデザインのルーツ
『尾道を知ることは 戸田のデザインのルーツを知ることである。戸田は、そのもととなる景色や環境を皆に見せたかったのであろう。
今回は、所員に故郷を見せながら、ランドスケープデザインの基本を語り、未来を垣間見せる「戸田の語り」を興味深く聞くことができた。そして、尾道のアーケードを歩けば「戸田君!」と声がかかる。戸田が故郷で有名なこともあるが、幼少の頃から一緒の仲間の方々もお元気で、齢を重ねても故郷で声をかけ合い、語り合える友がいることは幸せなことである。自慢できる仕事と故郷の関係を語る。これが本当の「故郷に錦を飾る」ことなのであろう。
私は東京で生まれ育った。東京は混沌の街。時代とともに日々景色が変わり、不動の風景はほとんどないが、夜の煌々と輝く街、東京を私は好きだ。でも今回は、このような故郷を持つ、戸田がうらやましかった。尾道には山海の自然、そこに纏わる古寺や歴史・文化が現在も継承されている。戸田の実家の裏には、戸田が子供の頃に遊んだ岩山と鎖が今も残っていた。尾道のように山海・古寺が、いつ故郷に帰ってもそこに変わらずあり、その自然に支えられた暮らしや産業が展開し、その日々の皆の暮らしが山の上から見ることができる。これが戸田の故郷なのだ。その自然の形から戸田のデザインが始まるのだと思う。あの入り江の入りくんだ汀のラインは、水景デザインのラインだ。これまで見てきた戸田のデザインの始まりと展開が尾道には見える。
尾道三山の寺の正面は、尾道水道の対岸の向島の岩屋山に向いている。対岸にあがる太陽の光は千光寺を照らし、より神秘性を増すのであろう。千の光を集める千光寺だ。測量技術もない時代によくこうした、仕掛けが考えられたものだ。これがランドマークの創り方の一つで、こうした景色を見ると、ランドスケープは機能と神秘性の展開なのだと思う。
また、下から見上げる千光寺の背後にある巨石は今にも動き出しそうな躍動感がある。この動きのある岩山も戸田の庭造りの配石の妙と思える。…と偉そうに語ってしまったが、尾道は、その自然と寺と岩山と、なんと神秘的な場所なのだ、というのが私の研修で景色を見た感想であり、なぜかちょっと偉そうに色々語れる崇高な気分になれる場所なのである。尾道の神秘に一歩踏み込めた様な気がして、嬉しい気分である。』
今回は、所員に故郷を見せながら、ランドスケープデザインの基本を語り、未来を垣間見せる「戸田の語り」を興味深く聞くことができた。そして、尾道のアーケードを歩けば「戸田君!」と声がかかる。戸田が故郷で有名なこともあるが、幼少の頃から一緒の仲間の方々もお元気で、齢を重ねても故郷で声をかけ合い、語り合える友がいることは幸せなことである。自慢できる仕事と故郷の関係を語る。これが本当の「故郷に錦を飾る」ことなのであろう。
私は東京で生まれ育った。東京は混沌の街。時代とともに日々景色が変わり、不動の風景はほとんどないが、夜の煌々と輝く街、東京を私は好きだ。でも今回は、このような故郷を持つ、戸田がうらやましかった。尾道には山海の自然、そこに纏わる古寺や歴史・文化が現在も継承されている。戸田の実家の裏には、戸田が子供の頃に遊んだ岩山と鎖が今も残っていた。尾道のように山海・古寺が、いつ故郷に帰ってもそこに変わらずあり、その自然に支えられた暮らしや産業が展開し、その日々の皆の暮らしが山の上から見ることができる。これが戸田の故郷なのだ。その自然の形から戸田のデザインが始まるのだと思う。あの入り江の入りくんだ汀のラインは、水景デザインのラインだ。これまで見てきた戸田のデザインの始まりと展開が尾道には見える。
尾道三山の寺の正面は、尾道水道の対岸の向島の岩屋山に向いている。対岸にあがる太陽の光は千光寺を照らし、より神秘性を増すのであろう。千の光を集める千光寺だ。測量技術もない時代によくこうした、仕掛けが考えられたものだ。これがランドマークの創り方の一つで、こうした景色を見ると、ランドスケープは機能と神秘性の展開なのだと思う。
また、下から見上げる千光寺の背後にある巨石は今にも動き出しそうな躍動感がある。この動きのある岩山も戸田の庭造りの配石の妙と思える。…と偉そうに語ってしまったが、尾道は、その自然と寺と岩山と、なんと神秘的な場所なのだ、というのが私の研修で景色を見た感想であり、なぜかちょっと偉そうに色々語れる崇高な気分になれる場所なのである。尾道の神秘に一歩踏み込めた様な気がして、嬉しい気分である。』
大橋 尚美
ランドスケープ アーキテクトとしての責任
2002年12月6日付けの中国新聞社の紙面に、記者が戸田芳樹にインタビューした内容を要約した記事を、次のように載せている。
「古里・尾道は、風景を通して自分の歴史を見詰めるには最適な町である。自分の親、祖父の記憶までも、積み重ねることが、尾道なら可能という。そんな古里を思うにつれ、戸田は感じる。『日本は戦後、風景を壊してきた。風景をどうつくっていくか責任は重い』と。」
ランドスケープ アーキテクトとして責任を自覚しながら、戸田芳樹は、多くのプロジェクトを日本中に、また近年では中国にも展開させているようだ。そして故郷の尾道にも、人々が心豊かに集える空間を創造している。ここでは簡単に二つの事例を写真(COVID–19の非常事態宣言下の2021年5月30日撮影)で紹介するにとどめ、後日、改めて詳しく書く予定だ。
余談だが、小津安二郎監督の「東京物語」の中で、笠智衆と東山千栄子が暮らす尾道の家は、戸田芳樹の実家が舞台となった。
「古里・尾道は、風景を通して自分の歴史を見詰めるには最適な町である。自分の親、祖父の記憶までも、積み重ねることが、尾道なら可能という。そんな古里を思うにつれ、戸田は感じる。『日本は戦後、風景を壊してきた。風景をどうつくっていくか責任は重い』と。」
ランドスケープ アーキテクトとして責任を自覚しながら、戸田芳樹は、多くのプロジェクトを日本中に、また近年では中国にも展開させているようだ。そして故郷の尾道にも、人々が心豊かに集える空間を創造している。ここでは簡単に二つの事例を写真(COVID–19の非常事態宣言下の2021年5月30日撮影)で紹介するにとどめ、後日、改めて詳しく書く予定だ。
余談だが、小津安二郎監督の「東京物語」の中で、笠智衆と東山千栄子が暮らす尾道の家は、戸田芳樹の実家が舞台となった。
戸田芳樹のプロフィール
1947年広島県尾道市生まれ。広島県立尾道北高等学校を経て、東京農業大学造園学科卒業。1970年から1973年まで東京・京都等で庭師の修行後、74年からアーバンデザインコンサルタント(代表/黒川紀章)を経て、1980年(株)戸田芳樹風景計画を設立。シンプルでダイナミックな空間でありながら、暖かく柔らかい空気の味付けと、こまやかなディテールの作品を創り続けている。
1989年「諏訪湖畔公園」により東京農業大学造園大賞、1994年「コリア庭園」により日本公園緑地協会長賞、1995年修善寺「虹の郷」で造園学会賞を受賞。
1999年から2003年まで千葉大学緑地・環境学科、2002年から京都造形芸術大学通信教育部ランドスケープコースで非常勤講師を務める。茅ヶ崎市の景観アドバイザー、朝霞市の緑化推進委員などを歴任。
2005年「愛地球博」のランドスケープディレクターとして個別のランドスケープ・デザインの実務についての監修・指導を務め、万博のセンターゾーンのこいの池など日本広場を設計した。
2014年茅ヶ崎市景観まちづくりアドバイザー、2019年ランドスケープアーキテクト連盟会長に就任。
近年、中国でのプロジェクトを受注する中、北京・上海・南京において講演会を開催。
現在、株式会社戸田芳樹風景計画 代表取締役会長。
「戸田芳樹風景計画景観設計30年(中国建築工業出版社)、「昭和の名庭園を歩く(マルモ出版)」「日本庭園を読み解く(共著/マルモ出版)」他。
1989年「諏訪湖畔公園」により東京農業大学造園大賞、1994年「コリア庭園」により日本公園緑地協会長賞、1995年修善寺「虹の郷」で造園学会賞を受賞。
1999年から2003年まで千葉大学緑地・環境学科、2002年から京都造形芸術大学通信教育部ランドスケープコースで非常勤講師を務める。茅ヶ崎市の景観アドバイザー、朝霞市の緑化推進委員などを歴任。
2005年「愛地球博」のランドスケープディレクターとして個別のランドスケープ・デザインの実務についての監修・指導を務め、万博のセンターゾーンのこいの池など日本広場を設計した。
2014年茅ヶ崎市景観まちづくりアドバイザー、2019年ランドスケープアーキテクト連盟会長に就任。
近年、中国でのプロジェクトを受注する中、北京・上海・南京において講演会を開催。
現在、株式会社戸田芳樹風景計画 代表取締役会長。
【主な著書】
「戸田芳樹風景計画景観設計30年(中国建築工業出版社)、「昭和の名庭園を歩く(マルモ出版)」「日本庭園を読み解く(共著/マルモ出版)」他。
県立尾道東高等学校ー羽ばたきの庭
海辺のオリーブ広場
尾道駅から海岸線を500mほど西へ歩くと到着する。尾道が約40来待ち望んでいた海辺の魅力がここに実現した。
この場所は広島県営上屋1号棟と2号棟が並んでいた。1号棟は駐車場となり、2号棟はリノベーションでU2に。
この場所は広島県営上屋1号棟と2号棟が並んでいた。1号棟は駐車場となり、2号棟はリノベーションでU2に。
向島洋ランセンターの芝生広場
向島の高見山の山麓にある向島洋ランセンターでは、バイオテクノロジーによる胡蝶蘭の生産が行われている。
このセンターではその美しい胡蝶蘭を展示棟で楽しめるが、センター内にある戸田芳樹が手がけた芝生広場は、自然の豊かさを満喫できる開放的な空間として魅力的だ。吾輩の写真では、この空間の素晴らしさを伝えることはできないので、その魅力を少しでもお伝えできればと、ちょっとばかり撮った動画を掲載した。いかがだろうか、お判りいただければ幸いだ。(センターの入場は無料/休園は火曜日)
戸田芳樹と「東京物語」
戸田芳樹の実家は、1953年に笠智衆と東山千栄子が演ずる夫婦が住んでいた尾道の家として、ロケーション撮影の舞台となった。
そして、2011年11月に吾輩たちのNPO法人おのみちアート・コミュニケーション( 2007-2019)は、尾道ゆかりの脚本家・高橋玄洋のお声がかりで、小津安二郎に最も可愛がられた女優・中井貴恵のひとり語り形式の「音語り 東京物語」を主催できた。
その後、吾輩たちは、小津安二郎生誕110年・没後50年の2013年7月、縁あって尾道で座談会「小津安二郎を語る会」を開くことができた。座談会は、高橋玄洋(脚本家)、末永 航(美術史家・美術評論家)、 ドミニク・パスカリーニ(アーティスト)の3名の話し手で行われた。その中で、戸田芳樹に無理難題な3〜4分というタイトな時間で動画収録をお願いし、スクリーンでの参加をいただいたのが、ここに載せた動画である。
この動画は、戸田芳樹が幼稚園児の1953年に、ロケーション撮影された当時の思い出を、戸田家の内で語り継がれた話を織り交ぜながら収録された貴重なものだ。動画の末尾に数秒間のちょっとした意図しない話が収録されているが、路地ニャン公の飼い主は、いまだアナログ派で、ビデオの編集技術を持ち合わせていなかったので編集なしの生ビデオとなっている。