歴史ある尾道の3台のピアノ
歴史ある都市や町には、さまざまな興味ある物件に遭遇することがある。例えば、どこにでもあるピアノではあるけれど、そんじょそこらにはないピアノもあるのだ。そんなピアノが吾輩の知るところでは尾道に3台もある。
1台は1924年(大正13年)製スタインウエイ&サン社のもので、1台は1906年(明治39年)製のベヒシュタイン社のもの(トップ写真)、そして最後は1950年(昭和25年)製のディアパ−ソン社のものだ。3台のピアノの年齢を合計すると299歳。2026年7月現在では、平均年齢99.6歳を越している。
経済が発展し、日常に芸術文化の種(ピアノ)を蒔き、その種は芸術文化を愛する市井の人々の生活の中で花を咲かせる。しかし、花は日々の愛情をもって育てあげなければ、美しい花には育たない。
1台は1924年(大正13年)製スタインウエイ&サン社のもので、1台は1906年(明治39年)製のベヒシュタイン社のもの(トップ写真)、そして最後は1950年(昭和25年)製のディアパ−ソン社のものだ。3台のピアノの年齢を合計すると299歳。2026年7月現在では、平均年齢99.6歳を越している。
経済が発展し、日常に芸術文化の種(ピアノ)を蒔き、その種は芸術文化を愛する市井の人々の生活の中で花を咲かせる。しかし、花は日々の愛情をもって育てあげなければ、美しい花には育たない。
1899年(明治32)製と思い込んでいたスタインウエイ・ピアノの修復
尾道市立久保小学校といえば、1873年(明治6年)に『小学温柔舎』として曹洞宗天寧寺の中に創設されたもので、尾道ではもっとも古い由緒ある学校である。その後、明治30年(1897)に瑠璃(浄土寺)山麓西側の時宗西郷寺のそばに移転した。現在の校舎は、昭和8年製鉄筋コンクリ−ト3階建ての国登録有形文化財の資格がある貴重なものだ。
この学校には、もうひとつ知られざる日常遺産<ピアノの名器>がある。 Steinway & Sons (1924年製・製造番号223559)だ。
この世に生まれ74年という長〜い歳月が過ぎ去った1997年当時は、このスタインウェイ ピアノは1899年(明治32)製と思い込んでいた。そのため100年も経つと経年劣化も著しいと、目でみただけで象牙作りの52鍵の白鍵は部分的に剥げ落ち、外観の痛みもひどく火災を潜り抜け、今もなお、生き続ける生命力には圧倒されたものだ。話によれば、このピアノは尾道ゆかりの軍人が軍艦に載せて尾道に運んで来たということだが、確証はない。
尾道の繁栄ぶりを物語るこの名器、100年近く前から尾道にあるこのピアノを是非とも修復し、再び華麗な響きを奏でることを期待したいものだと筆者は密かに考えていた。
幸いにも、当時の久保小学校PTA会長は筆者が大変お世話になっていた日暮彰文氏(丸善製薬株式会社 社長)だったので、ピアノ修復の思いをお話しすると、その重要性をご理解いただき、思いが通じた。日暮会長のリーダーシップのもと久保小学校のPTA組織が中心となり、このピアノを修復しようという動きが芽生えた。
この修復を300万円で手掛けたのが、大阪府堺市在住の山本宣夫(山本コレクション代表、フォルテピアノ修復家)だ。彼と筆者は1993〜4年からの付き合いで、山本宣夫はオーストリア国立ウィーン美術史博物館の専属フォルテピアノ修復師で、尾道の大ファンでもあった。
一年の歳月が流れた1998年10月、スタインウェイ・ピアノは美しい音色とキリッとした容姿で、再び久保小学校に帰ってきた。山本宣夫はこのスタインウエィピアノ修復に関して、その想いを文章を残している。
スタインウエイ ピアノその来歴
2026年の7月まで、私たちは尾道市立旧久保小学校のスタインウェイ ピアノは、1899年製(明治32年)で、今年127歳と思っていた。ところが、イリーナメジューエワ専属の調律師で、神戸市で1930年創業の日本ピアノサービス(株)の社長でもある磻田聖二氏が7月にピアノの下見に久保小体育館を訪れて、予期せぬドラマが始まった。
スタインウェイピアノの蓋を開けた瞬間、磻田氏の下見に立ち会った皆は驚愕の声をあげた。夏の猛暑で、空調設備のない体育館で、ハンマーと鍵盤に使われているフェルトを接着する膠(にかわ)が高温のため溶け、フェルトが剥げていたのだ。しかも、磻田社長がピアノの製造番号に合った製造年をケータイで調べ、このピアノが1923年製(大正12年)だと判明。その瞬間、このピアノは24歳も若返り103歳となった。さらに磻田氏はこのピアノはスタインウェイ ニューヨークではなく、スタインウェイ ハンブルクではないかとも。いよいよ、このスタインウェイの履歴が私の脳細胞の注目の的となった。
その数日後、まさかのびっくり情報が判明する。この103歳のピアノが、スタインウェイ社のピアノ製造の歴史の中で「黄金期」と呼ばれる時代に生まれ、ヴィンテージ・ピアノ(最高峰の品質の歴史楽器)だとで判ったことだ。

広島県立尾道東高等学校のルーツを辿ると、1909年(明治42年)創立の尾道市立高等女学校に至る。小説家・林芙美子が学んだ学校としても有名で、校長室には彼女が描いた油絵「裸婦」が飾ってある。
1931年(昭和6年)、広島県立尾道高等女学校(県女)は創立20年を迎え、全国から当時のお金で6,000円の寄付金が集められた。その寄付金4,000円で当時としては最新設備を誇る講堂が建てられ、残りの2,000円で世界でも最高級品のベヒシュタイン社の1906年製(ドイツ ベルリン/製造番号57470)のフルコンサート・ピアノが備えられた。(当時の2,000円は民家が2軒も建つ貨幣価値があった。)

購入時のベヒシュタイン日本代理店の帳簿には、同型のピアノは、日本に3台輸入されたと記録されている。1台は宮内庁、1台は内閣総理大臣官邸、そして最後の1台は広島県立尾道高等女学校である。当然のことながら、このピアノは県女の誇りであった。
戦後もしばらくは、東高校の名物であった。ある時はイギリスのピアニストで世界的に著名であった・ソロモン カットナー(1902- 1988)の演奏のために広島まで運ばれたという。下の写真は、昭和28年10月5日広島市東洋座で行われたソロモンの演奏会の様子である。
ソロモン演奏会のモノクロ写真の隣は、2019年初夏イリーナ・メジューエワが初めてベヒシュタインに対面したときの写真である。そして同年11月、尾道東高等学校創立110周年記念事業として、悪条件下の体育館ではあったが、イリーナ・メジューエワのピアノ演奏は全校生徒をはじめ、多くの聴衆に与えた感動の記憶が今も鮮明に蘇る。


しかし、年月が流れると共にこのピアノも忘れられていった。その後、ベヒスシュタインは音楽準備室に設置されていたが、象牙の鍵盤は磨り減り黄ばんでいた。何回か移動したためであろう、脚は傷ついていた。このピアノを蘇らせるためには多額の費用を必要とした。こうした優れた楽器は、単に音を出す道具とは考えられない気品がある。1990年(平成2年)創立80周年記念事業として、同窓会が寄付金600万円を募り、その資金でピアノを完全修復し専用の格納庫を造ったという。(広島県立尾道東高等学校「80年のあゆみ」を参照)
このピアノ修復により、ベヒシュタインは、尾道東高等学校の「宝」として再び認識され、近年、毎年秋には校内で選抜された生徒数名により、ベヒシュタインを全校生徒の前で演奏するという学校行事として定着している。
唯一残念なことは、フォルテピアノ修復家の山本宣夫氏の鑑定で分かったことだが、修復部品の一部に当時の部品が使われず、ヤマハ製が使われており、骨董的価値がなくなったということだ。
だからといって、ピアノ自体の価値がなくなったわけではない。修復後のピアノ演奏では、演奏者の高い評価を受けている。このベヒシュタインを弾き、是非ともCDを制作したいというピアニスト上野 真(京都市立芸術大学教授)の熱い思いにより、筆者が主宰するNPO法人おのみちアート・コミュニケーション(2007-2019)の協力を得て、2015年三原市芸術文化センターポポロでの収録が実現した。2016年にCD上野 真『夜のガスパール』がリリースされ、同年7月号で「レコード芸術」特選版の栄誉を得ている。


スタインウェイピアノの蓋を開けた瞬間、磻田氏の下見に立ち会った皆は驚愕の声をあげた。夏の猛暑で、空調設備のない体育館で、ハンマーと鍵盤に使われているフェルトを接着する膠(にかわ)が高温のため溶け、フェルトが剥げていたのだ。しかも、磻田社長がピアノの製造番号に合った製造年をケータイで調べ、このピアノが1923年製(大正12年)だと判明。その瞬間、このピアノは24歳も若返り103歳となった。さらに磻田氏はこのピアノはスタインウェイ ニューヨークではなく、スタインウェイ ハンブルクではないかとも。いよいよ、このスタインウェイの履歴が私の脳細胞の注目の的となった。
その数日後、まさかのびっくり情報が判明する。この103歳のピアノが、スタインウェイ社のピアノ製造の歴史の中で「黄金期」と呼ばれる時代に生まれ、ヴィンテージ・ピアノ(最高峰の品質の歴史楽器)だとで判ったことだ。
製造番号(シリアル番号)で製造年と製造工場を探せ
スタインウェイ社のピアノの公式製造番号表が公開されていない中、製造番号223559でのAI情報はさまざまに異なり、1923年製または1924年製となっている。またWEB記事によると、スタインウェイ社は当初ニューヨーク工場で製造した部品をハンブルク工場で組み立てる体制をとっていたが、1914年には「完全な一貫生産体制」となったということ。その後、ロンデンバーグ通りに1923年から1928年までの新工場を設立・建設したことで、これ以降、ニューヨーク工場とは独立体制となり、ヨーロッパで好まれるクラッシ音楽に合わせ繊細で包み込むような響きの音色を追求していくことになり、現在多くのホールにスタインウェイが存在し得る環境を確立したようだ。
スタインウェイ・ニューヨーク本社に久保小学校のピアノの記録あり
大阪音楽大学の能登原特任教授の10月中旬の調査報告では、スタインウェイ・ニューヨーク本社に製造番号を伝えてこのピアノの由来を問い合わせたところ、「このピアノは、1924年(大正13年)にハンブルクで完成され、同じ年大阪の老舗・三木楽器店が6月24日取引が成立し、スタインウェイピアノが7月3日到着したとの記録が残っている」ことが判明した。その後、三木楽器店の古い台帳で、「大正14年に尾道市久保本町の折川三郎楽器店がスタインウェイを購入している記録を確認しました」という新たな情報が能登原特任教授から送られてきた。私たち尾道市民のスタインウェイはハンブルク生まれで、今年で102歳か103歳だと確定したようだ。
スタインウェイ(1924年製)が脚光を浴びた時代の尾道は、歌舞音曲も盛んなまちであったと聴いていた。それで洋楽はどのように受け止められたのか。
スタインウェイ(1924年製)が脚光を浴びた時代の尾道は、歌舞音曲も盛んなまちであったと聴いていた。それで洋楽はどのように受け止められたのか。
大正末期から昭和初期における尾道の洋楽事情
尾道市史編纂委員会事務局だよりの令和8年3月発行 [特集] 音でたどる尾道の今昔に、なぜ久保小学校にスタインウェイピアノがあるのか、その疑問に応える記事を確認した。
『大正11年(1922)の久保小学校創立50周年を記念して保護者会が寄贈』を決め、スタインウェイが久保小学校に届けられて以降、『昭和の初めまでに多くの音楽家が尾道へ来られ、この銘器とともにコンサートを行っています。なかでも目を引くのは 世界的オペラ歌手、藤原義江のリサイタルです。昭和9年(1934)3月16日に開かれた公演の様子を伝える記事では、 久保小学校講堂に2千人もの観客が詰めかけた』と当時の記事は伝えている。
1924年(大正13年)12月に到着した久保小学校のスタインウェイ。その7年後の1931年には尾道高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)には、ベヒシュタインが寄贈されました。この昭和の初期国民的な人気を得て「美貌の天才少女」と一世を風靡し、ヨーロッパに留学してベルリンフィルハーモニー管弦楽団との共演を果たすなど、国際的に活躍したヴァイオリニスト諏訪根自子も尾道に訪れている。華やかな歌舞音曲も流行った尾道の大正・昭和の時代で、西洋音楽も脚光を浴びた魅力のスタインウェイ、今の尾道では全く想像のつかない経済的文化的にハイレベルな都市であったことが伺われる。
日本最古の楽器店で大阪・三木楽器店がまとめた楽器史によると、この楽器は貴重な歴史楽器であることから、同時期にスタインウェイを購入した他の学校は、歴史的に貴重な楽器としてきちんとした保存に取り組んでおられるということだが、スタインウェイ ハンブルク(1924年製)が尾道で受けたあまりにもかけ離れた扱いに、「日本遺産都市」を掲げながら歴史・文化を生かすことなく蔑ろにしてきた近年の尾道らしさと言わざるを得ない。このことが尾道の都市力を失ってきた大きな原因だと思うのは筆者の独りよがりの戯言だろうか。歴史・文化を蔑ろにする尾道が、日本遺産の都市だとは不思議な話だ。
『大正11年(1922)の久保小学校創立50周年を記念して保護者会が寄贈』を決め、スタインウェイが久保小学校に届けられて以降、『昭和の初めまでに多くの音楽家が尾道へ来られ、この銘器とともにコンサートを行っています。なかでも目を引くのは 世界的オペラ歌手、藤原義江のリサイタルです。昭和9年(1934)3月16日に開かれた公演の様子を伝える記事では、 久保小学校講堂に2千人もの観客が詰めかけた』と当時の記事は伝えている。
1924年(大正13年)12月に到着した久保小学校のスタインウェイ。その7年後の1931年には尾道高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)には、ベヒシュタインが寄贈されました。この昭和の初期国民的な人気を得て「美貌の天才少女」と一世を風靡し、ヨーロッパに留学してベルリンフィルハーモニー管弦楽団との共演を果たすなど、国際的に活躍したヴァイオリニスト諏訪根自子も尾道に訪れている。華やかな歌舞音曲も流行った尾道の大正・昭和の時代で、西洋音楽も脚光を浴びた魅力のスタインウェイ、今の尾道では全く想像のつかない経済的文化的にハイレベルな都市であったことが伺われる。
日本最古の楽器店で大阪・三木楽器店がまとめた楽器史によると、この楽器は貴重な歴史楽器であることから、同時期にスタインウェイを購入した他の学校は、歴史的に貴重な楽器としてきちんとした保存に取り組んでおられるということだが、スタインウェイ ハンブルク(1924年製)が尾道で受けたあまりにもかけ離れた扱いに、「日本遺産都市」を掲げながら歴史・文化を生かすことなく蔑ろにしてきた近年の尾道らしさと言わざるを得ない。このことが尾道の都市力を失ってきた大きな原因だと思うのは筆者の独りよがりの戯言だろうか。歴史・文化を蔑ろにする尾道が、日本遺産の都市だとは不思議な話だ。
1906年生まれのベヒシュタイン・ピアノ
広島県立尾道東高等学校のルーツを辿ると、1909年(明治42年)創立の尾道市立高等女学校に至る。小説家・林芙美子が学んだ学校としても有名で、校長室には彼女が描いた油絵「裸婦」が飾ってある。
1931年(昭和6年)、広島県立尾道高等女学校(県女)は創立20年を迎え、全国から当時のお金で6,000円の寄付金が集められた。その寄付金4,000円で当時としては最新設備を誇る講堂が建てられ、残りの2,000円で世界でも最高級品のベヒシュタイン社の1906年製(ドイツ ベルリン/製造番号57470)のフルコンサート・ピアノが備えられた。(当時の2,000円は民家が2軒も建つ貨幣価値があった。)
購入時のベヒシュタイン日本代理店の帳簿には、同型のピアノは、日本に3台輸入されたと記録されている。1台は宮内庁、1台は内閣総理大臣官邸、そして最後の1台は広島県立尾道高等女学校である。当然のことながら、このピアノは県女の誇りであった。
戦後もしばらくは、東高校の名物であった。ある時はイギリスのピアニストで世界的に著名であった・ソロモン カットナー(1902- 1988)の演奏のために広島まで運ばれたという。下の写真は、昭和28年10月5日広島市東洋座で行われたソロモンの演奏会の様子である。
ソロモン演奏会のモノクロ写真の隣は、2019年初夏イリーナ・メジューエワが初めてベヒシュタインに対面したときの写真である。そして同年11月、尾道東高等学校創立110周年記念事業として、悪条件下の体育館ではあったが、イリーナ・メジューエワのピアノ演奏は全校生徒をはじめ、多くの聴衆に与えた感動の記憶が今も鮮明に蘇る。
しかし、年月が流れると共にこのピアノも忘れられていった。その後、ベヒスシュタインは音楽準備室に設置されていたが、象牙の鍵盤は磨り減り黄ばんでいた。何回か移動したためであろう、脚は傷ついていた。このピアノを蘇らせるためには多額の費用を必要とした。こうした優れた楽器は、単に音を出す道具とは考えられない気品がある。1990年(平成2年)創立80周年記念事業として、同窓会が寄付金600万円を募り、その資金でピアノを完全修復し専用の格納庫を造ったという。(広島県立尾道東高等学校「80年のあゆみ」を参照)
このピアノ修復により、ベヒシュタインは、尾道東高等学校の「宝」として再び認識され、近年、毎年秋には校内で選抜された生徒数名により、ベヒシュタインを全校生徒の前で演奏するという学校行事として定着している。
唯一残念なことは、フォルテピアノ修復家の山本宣夫氏の鑑定で分かったことだが、修復部品の一部に当時の部品が使われず、ヤマハ製が使われており、骨董的価値がなくなったということだ。
だからといって、ピアノ自体の価値がなくなったわけではない。修復後のピアノ演奏では、演奏者の高い評価を受けている。このベヒシュタインを弾き、是非ともCDを制作したいというピアニスト上野 真(京都市立芸術大学教授)の熱い思いにより、筆者が主宰するNPO法人おのみちアート・コミュニケーション(2007-2019)の協力を得て、2015年三原市芸術文化センターポポロでの収録が実現した。2016年にCD上野 真『夜のガスパール』がリリースされ、同年7月号で「レコード芸術」特選版の栄誉を得ている。
蘇った日本生まれのドイツのピアノ
向島洋らんセンタ−の展示棟は、当初はどこにでもあるガラス張りの温室として計画されていた。この計画を知った尾道出身の建築家・岡河 貢(当時広島大学助教授)は、ハウスを作るという当初予算の枠内でも文化ホ−ルとしても使用できる多目的空間を建設できることを提案。1994年、彼の設計によって向島の洋ランの展示施設でありながら、多目的文化ホールとしても使用できる施設が誕生した。
洋らんセンタ−代表の林原 透は、地域の文化活動を支援する意味から、ピアノを常設したいと考えたが、購入予算は70万円しかなかった。そこで、筆者が大の尾道ファンである山本宣夫(フォルテピアノ修復家)に相談したところ、実に興味ある回答が得られた。
山本の工房には、大阪市の東梅田教会で永らくの間使用されていたピアノが保管されていた。ピアノは運搬中に脚が折れ、持ち主の意向で廃棄処分にされる運命にあったが、山本がその材質の良さから、倉庫に保管していたというのだ。


このピアノは、1950年代に製作されたディアパ−ソン(日本 浜松/製造番号24590)で、山本は、提示された限られた予算で、コンサ−トにたえられるピアノとして蘇らせようと快諾したのだ。山本はディアパ−ソンの中身(ハンマ−、フェルト、弦)を全く新しいドイツのレンナ−社の部品に取り替え、ピアノに二度目の新しい生命を吹き込んだのだ。
1997年12月26日、このピアノが堺市より運ばれてきた。新たに蘇ったこのピアノは、典型的なドイツピアノの美しい音色を奏でる。
思えば、向島洋ランセンターは、実に幸運な運命を歩んでいる。当センターの代表で林原 透が自らの夢を描き、「思う念力岩をも通す」で、ひとりで広島県農林水産課の扉を叩き、予算化させた。その結果、建設予定地も二転三転しながら、向島町は重い腰を上げざるを得なくなり、現在の場所に洋ランセンター建設計画が動き始めたのだ。
そんな折り、尾道出身の建築家・岡河 貢と同じく尾道出身のランドスケープ・アーキテクト・戸田良樹がボランティアでこの計画に参画した。ご両人は、当時、筆者も所属する任意のまちづくり団体・尾道じゅうにん委員会の特別会員でもあった。彼等の協力により素晴らしい野外空間と多目的な展示棟が完成し、当センターは今や押しも押されぬ文化活動の拠点として、数多くのコンサ−トやイベントが開かれている。(2006年2月)


洋らんセンタ−代表の林原 透は、地域の文化活動を支援する意味から、ピアノを常設したいと考えたが、購入予算は70万円しかなかった。そこで、筆者が大の尾道ファンである山本宣夫(フォルテピアノ修復家)に相談したところ、実に興味ある回答が得られた。
山本の工房には、大阪市の東梅田教会で永らくの間使用されていたピアノが保管されていた。ピアノは運搬中に脚が折れ、持ち主の意向で廃棄処分にされる運命にあったが、山本がその材質の良さから、倉庫に保管していたというのだ。
1997年12月26日、このピアノが堺市より運ばれてきた。新たに蘇ったこのピアノは、典型的なドイツピアノの美しい音色を奏でる。
思えば、向島洋ランセンターは、実に幸運な運命を歩んでいる。当センターの代表で林原 透が自らの夢を描き、「思う念力岩をも通す」で、ひとりで広島県農林水産課の扉を叩き、予算化させた。その結果、建設予定地も二転三転しながら、向島町は重い腰を上げざるを得なくなり、現在の場所に洋ランセンター建設計画が動き始めたのだ。
そんな折り、尾道出身の建築家・岡河 貢と同じく尾道出身のランドスケープ・アーキテクト・戸田良樹がボランティアでこの計画に参画した。ご両人は、当時、筆者も所属する任意のまちづくり団体・尾道じゅうにん委員会の特別会員でもあった。彼等の協力により素晴らしい野外空間と多目的な展示棟が完成し、当センターは今や押しも押されぬ文化活動の拠点として、数多くのコンサ−トやイベントが開かれている。(2006年2月)
尾道にはさらに2台、ドイツ語圏製造のピアノがあった
あと2台、スタインウエイとベーゼンドルファーがあるのを忘れていた。尾道しまなみ交流館にあるスタインウェイ(製造番号544368)はドイツ・ハンブルグで作られたピアノで、もうひとつは生口島のベルカントホールにあるベーゼンドルファー(オーストリア ウィーン)。144,859人の人口規模の割には、由緒正しき優れたピアノがあるものだ。余談ではあるが、ベーゼンドルファーは2008年よりヤマハの子会社となった。(2013年10月現在)
14年前に路地ニャンの旧WEB SITEに書き込んだものを加筆修正して再び登場させた。ということは、吾輩は偶然にも7年毎にこのページを改定していることになる。しかし、たった十数年あまりの時間的経過は、世の中を一変させた。毎年起こる豪雨や大地震の自然災害、そして最大の人災である東日本大震災による東電福島原発事故、そして2020年7月6日現在、世界の感染者数1,140万人、死者数533,000人の新型コロナウィルス(COVID 19)。それでも、世界の国々は現在も利権を争い、貧困や飢餓を生み続けている。尾道市の人口も131,957人(令和2年6月30日現在/外国人を除く)で、7年間で実に12,902人の減少となっている。尾道は入り込み観光客が多いと浮かれているが、このペースでは2030年には人口10万人を切ることなり、尾道市の将来も財政的に危うくなる可能性が大きい。(2020年7月6日)
14年前に路地ニャンの旧WEB SITEに書き込んだものを加筆修正して再び登場させた。ということは、吾輩は偶然にも7年毎にこのページを改定していることになる。しかし、たった十数年あまりの時間的経過は、世の中を一変させた。毎年起こる豪雨や大地震の自然災害、そして最大の人災である東日本大震災による東電福島原発事故、そして2020年7月6日現在、世界の感染者数1,140万人、死者数533,000人の新型コロナウィルス(COVID 19)。それでも、世界の国々は現在も利権を争い、貧困や飢餓を生み続けている。尾道市の人口も131,957人(令和2年6月30日現在/外国人を除く)で、7年間で実に12,902人の減少となっている。尾道は入り込み観光客が多いと浮かれているが、このペースでは2030年には人口10万人を切ることなり、尾道市の将来も財政的に危うくなる可能性が大きい。(2020年7月6日)
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