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尾道のまちづくりに脈々と受け継がれるベクトルとは

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まちづくりのベクトル/MachidzukuriVector


まちづくりのベクトル/MachidzukuriVector

合言葉


「尾道の不思議」


1985年の当時としては、全国的にも珍しいランドスケープ・アーキテクチャーのコンペ(設計競技)「芸術の森構想」を尾道商工会議所が主催した。そのコンペに応募し、グランプリに選ばれたのが戸田芳樹(戸田芳樹風景計画代表)の『アートフォーラムin尾道』計画だった。設計競技でグランプりに選ばれると、その計画にそって施設の実現をめざすのが通例だが、尾道はその一般常識を破った。尾道商工会議所がコンペを行い、尾道市が施主となる予定だったと聞くが、双方の間でどういった行き違いがあったのか、詳細がわからぬまま、芸術の森の建設が取りやめとなった。

「文化が経済を誘発する時代」


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1984年吾輩はある目的をもって尾道青年会議所(尾道JC)に入会した。そしてJC経験も浅い中、1986年日本JCに出向し、日本ふるさと塾の塾長・萩原茂裕と当時は滋賀総合研究所主任研究員の織田直文らが語る『まちづくり』に出会い感化された。その年、尾道JCの理事長・川口協治に『まちづくり』の必要性を訴え、シンポジウム「市民がつくる、まちづくり−人間性溢れる生活空間都市を目指して」を企画し、吾輩なりのまちづくり活動を始動した。
1987年、尾道青年会議所創立30周年記念事業「瑠璃橋公園」の関係で、担当委員会に同行するよう当時の理事長から指示を受け、吾輩は東京で戸田芳樹にお会いした。そこでお聴きした『アートフォーラムin尾道』のコンセプトに吾輩は共感し、尾道というまちの芸術化・文化化の可能性を是非ともたぐり寄せたいと心に決めた。
1988年9月、吾輩が手がけた第1回の食文化イベント『我等、尾道派−食談』のゲストのひとりで、建築家・岡河 貢(尾道出身)と出会うこととなる。彼はミッテラン大統領がすすめた9つの建設プロジェクト「グラン・プロジェ」(パリ大改造)の一つ、ラ・ヴィレット公園の設計コンペで1位となったベルナール・チュミの事務所スタッフ(1985-1986年)として、フランス政府に採用された世界の若手建築家のひとりだった。その岡河 貢が吾輩に語った言葉に、心を奪われた。それはフランスの文化大臣ジャック・ラングの『文化が経済を誘発する時代がくる』という衝撃的な言葉だった。

「知的活性化と遊び心」


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1988年には吾輩たちの任意のまちづくり団体「尾道じゅうにん委員会」の顧問に、東京在住の3名の尾道出身者に就任いただいた。その3名とは、委員会メンバーの川口協治の実兄・かわぐちかいじ(漫画家)、そして岡河 貢(建築家)と戸田芳樹(ランドスケープ アーキテクト)の才能豊かな人々だ。尾道ファン倶楽部「我等、尾道派-東京の集い」の写真は、右から若き日のかわぐちかいじ、戸田芳樹、岡河 貢の各氏だ。
尾道は歴史都市というだけでなく、すばらしく優れた出会いの装置だ。以降、尾道在住の10人の委員会メンバーと3名の顧問、さらに多くの人々との出会いによる人材ネットワークを広げることで、吾輩のまちづくりの師・織田直文(1952-2016)が唱える「まちづくりの主体は、知的活性化にある」ことを体現していった。
まちづくりに欠かせない合言葉、それは『知的活性化』と『遊び心』だと吾輩は硬く信じているが、尾道市ではどうだろうか。

繋がる


「Pizazzと魯山人」


1988年、広島県知事竹下虎之助の意向を受け、尾道商工会議所内に編成されたプロジェクト委員会『'95広島は変わる、十万人委員会–尾道の集い』が主催、尾道青年会議所主管による尾道・瀬戸の小魚フォーラム『第1回グルメ海の印象派–おのみち』が9月10日から28日まで開催された。このイベントは、(1)魯山人の器を使った数週間にわたる食事会、(2)イタリアの大理石の産地として有名なカラーラにあるピッツェリア(ピザ専門のイタリアの店)のオーナーシェフを尾道に招聘して、土堂海岸にあった旧協和銀行を会場として、当時の尾道では珍しい本場の窯で焼いたピザを、備前焼作家・佐藤苔助がこのイベントのために焼き上げた器で食する会、(3)尾道に著名な文化人たちを招聘して繰り広げられた食談会「我等、尾道派」だ。
そして(4)尾道市公会堂の海辺の駐車場を特設会場に、尾道の名のある食事処12店舗に出店してもらい、19種類の料理メニューで総数7,700皿の料理を用意して、記憶では1,500人を超える参加者が集うシーサイド・大パーティーを実行した。

「天国と地獄」


会場では、食と趣向を凝らしたさまざまなイベントが行われた。彫刻家の高橋秀幸が即興の鉄の彫刻パフォーマンスを見せた後、その作品を使ってかがり火を焚き、似顔絵コーナでは川口協治が腕を振るい、特設ステージでのアトラクションでは因島水軍太鼓が夜空に音色を轟かせた。
食を五感で楽しむ1日限りのシーサイドの食祭は、海辺の魅力を市民にアピールするというものだったが、そこには大きな落とし穴があった。食祭のタイトルを『味の名門食べ放題』としたため、観客の想定外の行動を誘発させてしまった。家から鍋を持参し、欲張って料理を持ち帰る人、多めに料理をとって大部分を食べ残す人、参加者が食べられる量を想定しての料理を用意した筈が、現実は料理がなくなり食べ損ねた人たちが出て「天国と地獄」の様相となった。尾道では、いまだ食事のマナーが浸透していなかったのだとは、吾輩の認識の甘さであり、責任者である吾輩の大失態であったと言える。
吾輩たちの運営上の盲点が露呈したことで、翌年は弁当形式となり、全体として整然とした雰囲気となり混乱はなくなったが、賑わいがトーンダウンしたように感じられた。
海辺のイベントが問題とはなったが、それにしても、これら4つのパートから構成された食文化イベント『第1回グルメ海の印象派–おのみち』の質の高さは、吾輩が知る尾道の過去半世紀の中では、特筆すべきものがあった。
掲載の食文化イベントのPR看板は、『第2回グルメ海の印象派–おのみち』のものだ。まちづくりのベクトル/MachidzukuriVector

「味なシンポ」


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翌年の第2回食文化イベントは、会期を3日間とし、尾道青年会議所単独の主催となった。第1回を継承したシーサイドイベント「海からの食祭」と16会場でおこなわれた「食談-我等、尾道派」、そして大掛かりなシンポジュウムで構成された。シンポジウムは、味なシンポ『食べながら夢を語る人々』という冠をつけ、赤瀬川原平(現代芸術家)、石川文洋(報道写真家)、大林宣彦(映画監督)、国吉直行(アーバンデザイナー)、高橋玄洋(脚本家)ら多くの方々を招聘し、4つのテーマに沿ったパートを同時進行させ、最後にパネルディスカッションを行うというものだった。

このシンポジウムは、1989年に大林宣彦監督に言われた「イベントには核(コア)が必要だよ」という言葉を受け、広島県地域振興部の協力を取り付け、吾輩が好き勝手に企画した大規模なシンポジウムとなった。そのため、吾輩は責任をもってシンポジウムの内容を詳細に記録した冊子を残している。また食談の企画運営を尾道青年会議所を卒業後も、1999年までの11年間、吾輩は尾道じゅうにん委員会として関わることとなる。このイベントが、吾輩が取り組んだ「知的活性化」のための有効な手段としての人材ネットワーク化に大いに貢献した。

「遊び人(ひと)は両刃の剣」


余談ではあるが、1988年という年は、吾輩が尾道JCをたった4年という短期間の在籍で卒業という最後の年であったが、この一年は今から振り返ってみると、果たして、本業の仕事(当時は父の経営する備三タクシーに在籍)をしていたのだろうか、と自ら疑わざるを得ないのだ。
それというのも、1988年は3月13日に新幹線新尾道駅開業祝賀事業として、全国にアピールするため、大阪から尾道まで「新幹線とのろし」を競争させるイベントを企画し、実行する担当責任者として1月から3月まで大忙し(その合間を潜り、別に200頁に及ぶ関連資料を冊子に残した)の毎日だった。それに並行して日本JC広島ブロック協議会の県東部地域交流委員会委員長として、初めて県の界を越え、岡山県西部と広島県東部の7つのJCロムを巻き込んだ官民が構成するネットワーク「備後サロン」を立ち上げての一年間の企画運営。さらに秋には、既述の食文化イベント「第1回グルメ・海の印象派ーおのみち」の「シーサイド・イベント」と「食談」を担当する尾道JCの企画運営の責任者で、右往左往していたのだ。やはり、この当時から吾輩は、遊び人(ヒト)であったようだと自嘲せざるを得ない。尊敬する先輩が、いみじくも吾輩を評して「お前が歩いた後は、ぺんぺん草も生えない」と、さらに「お前は両刃の剣」とも言われていたが、あながち的外れではないだろう。

一億円はどこへ?

1989年、竹下 登首相政権下の「ふるさと創生」で、全国のすべての自治体に一億円をばらまくという政策が行われた。尾道では、その一億円をどのように活用するか、市民の声を聴こうという発想は行政にはなかった。そこで尾道じゅうにん委員会でシンポジウム「一億円をどう使うか」を主催し、委員会顧問の岡河 貢(建築家)の発案による尾道駅前にあった県営倉庫県営倉庫の再生計画『アイアンパルテノン-出会いの装置』構想を発表した。
この構想は、産業遺構を建築と美術が融合した美の神殿(空間)として、人と人、人とモノが出会う装置として機能する尾道のシンボリックな存在となるものだった。そして地方の港湾都市で計画される倉庫を使った再開発案としては、全国的にも先端のものであったが、当時の尾道の行政、経済界も理解するものはいなかった。

「出会いの装置製造本舗」


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1990年6月、尾道じゅうにん委員会は、尾道・福山・三原のまちづくり団体のネットワーク化を目指した『出会いの装置製造本舗』を発足させ事務局となった。この『出会いの装置製造本舗』は、国土庁地方振興アドバイザー制度の受け入れ団体(1990)となり、全国でも初めてという4名のアドバイザー(遠藤聰、浦野秀一、大谷英二、服部守久)各氏が一堂に揃い尾道にお越しになられた。吾輩たちは3回にわたりご指導を受けながら、講師とともに尾道のまちづくりの方向性(まちづくり計画)を練っていった。翌年、広島県の「ひろしまパイオニア塾」(1991-1992)にも認定され、その活動の一環として、翌年の横浜、東京での活動が計画通り実現できた。

「上っ面と本質」


1991年には「横浜みなとみらい21」をすすめる横浜市のアーバンデザイン室の国吉直行氏のご案内による横浜の視察、東京品川のホテルで開催した第1回『尾道ファン倶楽部-東京の集い』、そして銀座数寄屋橋の「尾道の景観を守る」街頭募金活動に繋がっていった。
吾輩の独りよがりかも知れぬが、歴史ある尾道のまちづくりには、未来永劫のベクトルが存在する思っている。それは歴史を味方に歴史を生かすということだ。そしてアバンギャルドも飲み込んで行く。それは日常(生活を含めた)の風景の質を高めることでもある。そのためには、「出会いの装置」である尾道がもつポテンシャルを活し、優れた人材とのネットワークを築きながら、我々自身の知的活性化を図ることだ。
上っ面(うわっつら)の流行りに惑わされず、本質的なまちづくりのベクトルを見逃さぬことだと思うが、どうだろうか。

不条理な出来事


尾道まちのアート化・ギャラリー化をさらに具体化するため、1992年開業の株式会社ビサン ゼセッション社屋で、高橋秀行(彫刻家)による入口の鉄くずを素材としたアート・オブジェ製作と建物外壁の塗装カラーのアドバイス、高田三徳(画家)らによるブロック塀へのペインティングアートだった。また、この年、SPACE-SECESSIONと名付けた社屋2階で、全国で初めての「かわぐちかいじ原画展」をおこなった。
翌年の1993年11月に発足させた『クラシック音楽を楽しむ会』では、商業主義に囚われない質の高い音楽を尾道市民と共に楽しむことを目的とした。この会は、その後『おのみちホッとコンサート』に改名、さらに『NPO法人おのみちアート・コミュニケーション』に継承された。
1994年には『尾道まるごとギャラリー展』、2000年の『筒湯小学校まるごと梱包大作戦』、2007年12月にはNPO法人『おのみちアート・コミュニケーション』を設立し、NPO設立アピールの前夜祭として11月15日から26日の期間、六本木、南青山で写真、絵画、音楽の芸術イベントと第2回となる『我等、尾道派–東京の集い』を六本木のホテルで開催した。その後の2007年12月18日、NPO法人『おのみちアート・コミュニケーション』は、正式に誕生した。

カットアウト


1992年会社設立からNPO法人の解散する2019年の間、1995年から1997年までの約3年間に、亀田尾道市長の私的諮問機関『尾道観光市民会議』の座長として、産業遺構保全のプロジェクトをすすめ、尾道市の観光とは『日常風景(生活も含む)の質を高めること』であると定義し、観光市民会議独自で「都市デザインを決定するシステムの確立」を作成、尾道市長に政策提言した。その後、吾輩は市民会議の存在意義を疑問視し、委員会メンバーの同意を得て、観光市民会議の事実上の消滅を決定。以後、委員会を招集することはなかった。
いわゆる公的法人として、まちづくり活動に関わった非営利活動(NPO)法人おのみちアート・コミュニケーションでは、微力な吾輩ではあったが、7年間にわたる尾道市立美術館の改革をはじめ、いくつかの事業を展開した。そのNPO活動10年目となった2018年、平谷祐宏市政が不条理に断行した増田友也設計の市庁舎と公会堂解体と新市庁舎新築問題など、「日本遺産都市」と認定されながら、近代の歴史的建造物を次々と破壊して行く現況を踏まえ、吾輩個人の活動意義をこの尾道では失ったと判断し、会員にNPO法人の解散を提案。2019年8月NPO法人を正式に解散した。
1986年に日本青年会議所(日本JC社会開発委員会)出向により「まちづくり」を知って以来、今日まで実に33年間の尾道での吾輩なりの「まちづくり」にピリオドを打った。川口協治流で言えばカットアウトだ。(2021年4月28日)
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