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異業種の個性派が一同に集まり、緩やかな連帯をもって

尾道のまちづくり/Machizukuri> 尾道じゅうにん委員会/OnomichiJuninCommittee

尾道じゅうにん委員会/OnomichiJuninCommittee


尾道じゅうにん委員会/OnomichiJuninCommittee

寛容な尾道青年会議所とまちづくりとの出会い


35歳を過ぎた1984年、社団法人尾道青年会議所(Onomichi Junior Chamber/尾道JC)に入会した吾輩は、40歳で自動的に満期退会という制度を持つこの団体が、対外的に持続的な運動を呼び掛けながら、卒業と同時に多くの者が全くそのことに無関係な立場になることへの疑問を感じていた。その疑問への解決策として、吾輩は故・川口協治(1948-2013)、山北 篤と共に、現役JCでありながらJCメンバーと一般市民を混在させた新組織を誕生させた。
今から考えると尾道JCという組織は、極めて柔軟な組織だと思った。それは川口協治という尾道JC内部で絶大な信頼度のある人材がコアに居たことが、功を奏したのかも知れない。現役メンバーが公然と全く別組織を作ることを黙認したのだ。それとも、尾道JC内部の単なる同好会的な存在と認識していたのだろうか。ともかくも、その会は「尾道じゅうにん委員会」(Onomichi Junin Committee)という名の小さな組織だった。「じゅうにん」とは自由人であり、住人であり、10人という意味をもっていた。

「まちづくり」との出会い


「まちづくり」という言葉が未だ知られていなかった尾道JCで、半年間の仮入会後、たった1年を経過したという新米の吾輩ではあったが、年のせいもあって幸運にも1986年日本JCに出向した。そこで知った日本ふるさと塾の萩原茂裕、滋賀総合研究所主任研究員の織田直文(1952-2016)、奈良まちづくりセンターの木原勝彬が説く「まちづくり」との出会いが、吾輩の人生を大きく変えた。なかでも織田直文の「まちづくりの主体は知的活性化」にあるという考え方に大きく影響され、その当時10万人の人口であった尾道で、10人の仲間が真剣に動けば、まちは動くと考えていたのだ。
1986年、JCメンバーを中心とした第一次「尾道じゅうにん委員会」を結成、やがて1988年にはJCという組織枠を越え、吾輩はさまざまなジャンルの人材を選び、第二次「尾道じゅうにん委員会」を結成した。(写真/今はなき旧協和銀行前にて)
この会は、尾道在住の石油販売業、紙卸業、建築設計業、タクシー業の吾輩というJCメンバーとコンピューターの専門家、商業デザイナー、喫茶経営、ビデオ撮影編集業に彫刻家、フリーライターの10人、そして顧問として尾道出身者で東京在住の漫画家、ランドスケープ・アーキテクト、建築家の3人が構成員となり、さまざまなまちづくり運動を展開していった。
まずは、文章化された唯一の声明文である「尾道じゅうにん委員会案内」をご紹介しよう。

「尾道じゅうにん委員会」案内


◼️まちづくりだけれど、まちづくりじゃない


今の自分と生活に不満と疑問を持っていない人には、「まちづくり」は無理です。「まちづくり」を維持していくパワーは、こんな自分じゃ駄目だ、こんなまちには住みたくないという不満のはけ口をエネルギーとしています。個々の感性を生かし、如何に生きるかということを追い求める心の発露が、個人と個人の関わり合いの中で社会的なものへと昇華する、そこに「まちづくり」があると思えるのです。そして、「まちづくり」パワーの根底は、何よりも自分たちの住むまちへのひたむきな郷土愛によって支えられています。個人の生活と「まちづくり」がイコールしたものが、これからの尾道の「まちづくり」だと私たちは考えます。

◼️「尾道らしさ」を求めて


尾道らしさ、それは永々と引き継がれてきた歴史的文化遺産、尾道水道と尾道三山に囲まれた起伏に富む地理的条件に制約されながらも人間尺度で築かれてきた町並、美しく豊かな自然環境、これら総べてのものと対話しながら育まれてきた密集した生活文化にあると思えるのです。このまちでは、人が「生活する私自身」として存在し得るのです。人と人が皮膚感覚で話し合える「場」、文化・芸術が日常生活に同化する「場」、そして多くの人々が出会い、影響し合う「場」、尾道にはそういった顔が実に良く似合うと思うのです。また尾道というまち事体、多くのファンを持っています。私たちの願いは、そうした人たちをネットワーク化して「尾道ファン倶楽部」を創ること、そしてそれを基盤に「尾道らしさ」を発揮した「人的交流の拠点都市(人流の交差点)」として尾道が再生することなのです。

◼️「尾道じゅうにん委員会」とは


尾道の古い路地の一角にあり、藍色した暖簾の下には、自分たちの感性で創り出した新しい尾道の顔が並べてある。格子戸を開けて少し奥に入ると委員会メンバーや若い人たちが、自由に出入りできる小さなサロンがある。古いまちの小さなサロンだけれども、そこに集まる委員会メンバーの創り出すパワーと人的ネットワーク(尾道ファン倶楽部)、また発信するハイレベルな感性は、尾道の現在と未来を語るとき、避けて通れない文化の拠点である。そんな夢を持つ「尾道じゅにん委員会」です。「じゅうにん委員会」とは、尾道を愛するものが「まちづくり」について集い、語り、実践していく「住人」委員会であり、「自由人」委員会でもあります。参加する人の夢と主体性を尊重した「遊び心」を発揮しながら、もっと自由で、リアルで、身近なところから問題を掘り起こし、自分自身の生活の場から考え、実践していく団体として行動します。

辛うじて生き残った旧「協和銀行」


尾道じゅうにん委員会/OnomichiJuninCommittee
1988年、「尾道じゅうにん委員会(OJC)」のメンバー彫刻家の高橋秀幸が土堂海岸のとある寿司屋で昼食をとっていたとき、建設会社の現場監督らしき人が来て、その店に挨拶をした。「2〜3日後から隣の建物を取り壊しますので、御迷惑をおかけしますが宜しく!」
委員会メンバー高橋秀幸はその話を聞き、血相を変えて吾輩のところに連絡してきた「大変です。旧協和銀行が取り壊されらしい!!」。これは一大事とばかりに吾輩は、「尾道じゅうにん委員会」の尾道在住のメンバーと、運良く尾道に帰っていた建築家岡河 貢に連絡をつけ、その晩、活動拠点としていた味の店「輝」に緊急召集を掛けた。これはきっと旧協和銀行がわれわれに救いを求めているのだ。そう感じさせるまさに運命的な出来事であった。
委員会メンバー全員とアドバイザー1名が「輝」に集まり、議論を重ねた。尾道にとって、旧協和銀行は失ってはならない歴史的資産だ。だが、我々には、その建物を買収する力はなかった。尾道を発祥の地とする所有者のH銀行は、当時、全く歴史的建造物の付加価値を認識できず、更地にすることのみを考えていた。「客観的に言えば、今、旧協和銀行は首の皮一枚で命を繋げている。」どう対応すべきだろうか、と議論を重ねた。「われわれにできるのは、取り壊しの現場に行き、座り込みをしてでも工事を阻止すべきだ!」「残念ながら、建物の総てを守り抜くことはできないだろう」「一部の部材を保存し、命を継承する方法もあるのではないか」云々....。
とにかく、現場に行ってみよう。ということで、夜も11時近く、全員現場に出向いた。そしてトタン板で囲まれた工事用フェンスの「立入り禁止」に片目をつむり、不法侵入を敢行した。
懐中電灯に照らし出された建物の内部を調べた。やはり、この建物は尾道の歴史資産だ。ファサードは石造りで、内部は木造という和洋折衷の明治時代の尾道を代表する建造物であることを再認識した。
翌日、吾輩と設計士元廣清志は難航するであろう話に、腹をくくって広島銀行尾道支店に掛け合った。
と、ところがである。話は簡単だった。「私どもは、解体工事の業者にすべてお任せしていますので、業者に相談してください。」との返答。旧協和銀行の建物に関して何の興味もないのである。すぐさま、解体を請け負っていた椛蝠組の先代の新宅社長に面談した。「あの建物は尾道にとって大変重要なものです。我々が保存の費用を負担するので、どうかファサードだけでも保存するよう解体を進めてほしい...」熱っぽく話した。新宅社長は口を開いた。「私はよう判らんが、あんた等がそこまで云うからには大切なものなんじゃろう。解った!石材を保存しましょう。保存費用は要らんから。」夢のような回答であった。九死に一生を得るとは、このことだと我々は喜びを噛み締めた。旧協和銀行のファサードの石材は新宅社長の言葉通り保存され、現在もなお、大宝組の敷地に一角に確保されている。
「尾道じゅうにん委員会」は、この石材を公共的な建物の一部に使い、歴史を生かしたまちづくりを進めてほしいと願って来たが、現在まで未だ行政は関心を示さない。尾道じゅうにん委員会/OnomichiJuninCommittee

我々は、保存している石材を昔の旧協和銀行のファサードそのままに再現するだけの資料は一応確保しているが、できればこの石材を使って、例えばガラスの壁にアバンギャルドに組み込むことも可能で、全く新しい使い方をしてでも未来に再生することも夢見ている。(2019年1月現在、未だ石材は株式会社大宝組の敷地に保管され、ご迷惑をかけたままだ。

遊び心で「尾道探偵団」


同じく1988年、尾道じゅうにん委員会は、赤瀬川原平、藤森照信、林丈二らの「路上観察学会」の活動に魅せられ、まず「尾道探偵団」と称して尾道のまち歩きを始めた。普段何気なく目にしている尾道の日常風景を写真に撮り、備三タクシー株式会社をスポンサーとして8面蛇腹折りのパンフレット「尾道がんぼう」として結実させた。これが新聞社に取り上げられ、日常の知られざる尾道風景が話題となり、11月3日発行した一万部(無料配布)がアッとい間になくなってしまった。川口協治理事長が率いる尾道JCが、初めて取り組んだまちづくりシンポジウムのタイトルを「人間性溢れる生活空間都市・尾道」と決めた吾輩は、このパンフレットで観光客ではなく、この都市の魅力を尾道市民に伝えることを目論んでいた。尾道の日常の(生活を含めた)風景が、全国的にみても異空間で稀有な存在であり、それがこのまちの魅力なのだと伝えることを目的にしていたのだ。
パンフレット「尾道がんぼう」に掲載した漫画家かわぐち かいじ(尾道出身)氏が寄せた一文をここに紹介する。
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尾道の街にやすらぎ


私は、小金井市という東京の片田舎で暮らしています。東京で暮らすようになってすでに20年、高校を卒業するまで尾道で育った18年より今では永くなってしまいました。しかし、不思議なもので何年住んでも東京近郊の現住所に愛着が湧いてきません。故郷意識、わが街という実感がないのです。やはり、わが街というと私の場合、尾道ということになります。
尾道の街には匂いがあります。少年時代から体にしみ込んだ香りがあります。海の香り、魚の香り、鉄工所の鉄とペンキとオイルの香り、お寺の境内の木々の青い香り、今瞼をつむって香ってくるようです。その香りが東京の街には感じられません。しいて言えば自動車の排気の香りでしょうか。先日、友人に誘われ花見をしました。場所は友人の住んでいる新興の団地の広い公園でした。ハイテクを駆使した新しい住居、若木の多い芝生の公園、なるほどキレイではありましたが、どこか息が詰まるようでやすらぎを覚えませんでした。それは作られた遊園地、おもちゃ箱の趣きでした。自然はあるのですが、歴史がないのです。
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人間が先祖代々住んできた歴史の香りが無かったのです。若い桜を見ながら、ふと尾道の街並を思い浮かべました。何故、尾道の街並を歩きながら、様々な香りに包まれるときやすらぎを覚えるのか、判った気がしました。街角のスミズミに人間が代々生活してきた歴史が感じられるのです。昔からその街で生まれ生活をしてきた人々の影がそこかしこに感じられ、その人々と精神的な会話を交わしてるような気分になるのです。そして自分が今眺めている風景の過去の姿が見え隠れし、その風景と会話するのです。そうして自分が現在を生きているんだなと実感できるわけです。私が尾道の街にやすらぎを覚えるのは、この会話のような気がします。  

■尾道まちづくりシンポジウム「一億円をどう活用するか」


1988年から1989年にかけて、日本中が竹下政権の「ふるさと創成一億円」に湧いていた。大小を問わず、地方自治体に一律一億円がばらまかれるというのだから、世の中は大騒ぎだ。そんな中、尾道市は無頓着で平然としていた。当時の尾道市は、一億円をどう使うかという知恵も持たず、市民と共にその使い道を考えるというスタンスも持ち合わせていなかった。「尾道じゅうにん委員会」はそんな尾道の将来に危機感を抱いていた。広島県企画振興課、尾道市企画財務部、広島経済同友会尾道支部、(社)尾道青年会議所に声を掛け、尾道まちづくりシンポジウム「一億円をどう活用するか」を開催した。1989年3月26日のことであった。
シンポジウムのプログラムには、次のような「尾道じゅうにん委員会」の挨拶文を掲載している。
「地方の時代」といわれ久しくなります。そして今「ふるさと創生」という掛け声と共に「地方自治」の意味が真に問われています。一億円の使途に関するセンセーショナルな議論だけに終止することは、避けなければなりません。
まちづくり(ふるさとづくり)とは、決して都市計画や地域計画だけにあるのではなく、その地域に住む人々自らが考え、行動することで成し得るものだとと思えるのです。そしてまちづくりとは、何よりもその地域(まち)の特性を生かし、これから来る時代に合った新しい価値を発見することが重要となるのです。
「歴史は螺旋状に進歩する」と云われます。技術革新という軸を中心に左右に大きく揺れ動きながら、進歩して行くという意味でしょう。「まち」にも先人たちが汗し築いて来たそれぞれ固有の歴史があります。私たちには、尾道という「まち」の歴史の軸を正しく読み取り、まちづくりに取り組む責任があるのです。今回、自治省が発表した「自ら考え自ら行なう地域づくり事業」を契機に、今こそ私たちは考え、行動しなければならないと思うのです。「尾道は、私たちにとって何であるか、私たちはどういった尾道を求めるのか。そして私たち市民は、尾道のため、子供たちのため私たち自身のために、何ができるか.....」
  1989年3月26日 尾道じゅうにん委員会
主催/尾道じゅうにん委員会、後援/尾道市・広島経済同友会尾道支部・社団法人尾道青年会議所●パネルディスカッションPART1⭐︎パネリスト岡河 貢(建築家・東京工業大学工学部非常勤講師)・川平孝雄(NTT中国総支社総合通信システム営業部長)・菅原良郎(広島県企画振興部地域振興課長)・戸田芳樹(株式会社戸田芳樹+風景計画代表取締役)/コーディネーター高橋秀幸(彫刻家・尾道じゅうに委員会メンバー)●パネルディスカッションPART2⭐︎(PART1のパネリストに次の4名のパネリストが加わる)パネリスト安保雅文(社団法人尾道青年会議所理事長)・富島正路(広島経済同友会尾道支部副支部長)・日谷 寛(尾道市企画財務部く企画課長)・高橋秀幸(彫刻家・尾道じゅうに委員会メンバー)/コーディネーター野間圭介(尾道短期大学経営情報学科助教授・尾道じゅうにん委員会メンバー)
尾道じゅうにん委員会は、このシンポジウム後、「アイアン・パルテノン構想」に着手し、同年10月尾道まちづくりシンポジウム 第2弾 味なしんぽ「食べながら夢を語る人々」で構想を公表した。尾道市は具体的なグランド・デザインを描くことなく、一億円を野外彫刻群と公衆トイレに投入したが、市民の関心を集めることはなかった。

■シンポジウム「味なしんぽ−食べながら夢を語る人々」


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バブル経済の1988年から89年にかけて、竹下登首相の「ふるさと創生一億円」で全国の自治体に地方交付税という形で一億円がバラまかれた。これをどのように使うか、尾道市は市民的議論を喚起させないまま、後の野外彫刻設置事業を進めようとした。
私たち「尾道じゅうにん委員会」は、一億円の使い道の議論の場として、1989年3月広島県や尾道市内のさまざまな団体に呼び掛け、尾道まちづくりシンポジウム「一億円をどう活用するか」の開催に漕ぎ着けた。そして、その一億円を使う具体的事業の提案として、我々は密かに提案者の建築家・岡河 貢氏を中心に「アイアン・パルテノン(出会いの装置)構想」の企画を練っていた。尾道じゅうにん委員会/OnomichiJuninCommittee
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同年10月その構想を公表するため、広島県とのパイプを持っていた吾輩は「第2回グルメ・海の印象派ーおのみち」(略.グルメ・イベント)の中に、単独で広島県地域振興部から予算を獲得して、赤瀬川原平(現代芸術家・作家)、高橋玄洋(作家)、大林宣彦(映画監督)、石川文洋(報道写真家)ほか多くのパネリストを招聘した新たなシンポジウム「味なしんぽ−食べながら夢を語る人々」を企画し、尾道じゅうにん委員会が事務局を務める「出会いの装置製造本舗」で実施した。その予算は以降、広島県から尾道市を経由し、グルメ・イベントの数年間を支えてくれた。

■アイアン・パルテノン構想


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「アイアン・パルテノン(Iron Parthenon)構想」の対象となっていたのは、現在のグリーンヒルホテル尾道の西に隣接する県営倉庫群の一つである上屋1号棟(今は二階建ての鉄骨の駐車場となっている)であった。倉庫群の中でも、特に県営倉庫1号棟は、尾道が海運の隆盛を誇っていた時代の産業遺構として、極めて重要な存在であった。その内部構造は、手作りのリベットで止められた鉄のトラスに組んであるという、芸術的な美しさがあった。この構想については、別途詳細を記載している。 

尾道じゅうにん委員会の構成員


【顧問】岡河 貢(建築家・東京工業大学工学部非常勤講師)、かわぐちかいじ(漫画家)、戸田芳樹(株式会社戸田芳樹風景計画 代表取締役)
【メンバー】大崎義男(備三タクシー株式会社役員) 、大谷 治(茶房こもん代表)、柏原圭三(デザイナー)、川口協治(有限会社川口石油役員)、高橋秀幸(彫刻家)、田坂公男(AV尾三特機代表) 、野間圭介(尾道短期大学経営情報学科助教授)、 岡本早苗(フリーライター) 、元廣清志(有限会社元廣建築設計事務所代表)、山北 篤(紙誠株式会社役員)*以上五十音順で役職は1988年当時のもの>

「尾道じゅうにん委員会」の主な活動実績


●明治の代表的建築物「旧協和銀行」の一部部材を保存(1988年)
●出会いの装置「アイアン・パルテノン構想」(1989年)
●尾道まちづくりシンポジウム「一億円をどう活用するか」(1989年)
●まちづくり団体のリーダー連携組織「出会いの装置製造本舗」の設立(1990年)
●尾道まちづくりシンポジウム(1990年)「味なしんぽ−食べながら夢を語る人々
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【主な出版物】


○路上観察「尾道探偵団」−観光マップ「尾道がんぼう」企画(1988年)
○企画書「出会いの装置-アイアン・パルテノン構想」(1989年)
○冊子「味なしんぽ−食べながら夢を語る人々」(1990年)
○尾道ファン倶楽部通信(1991年)
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